「あ、あんたは……」
アレクが目を見開き、唇をわななかせているのを見て、カルラは薄く笑みを浮かべた。間違いない。霧の中で聞いた声は、この女の物なのだ。
「あのとき俺を助けてくれたのは、あんただった……ですか?」
いつの間にか風は止み、木立ちがじっと息を潜めている。底の見えない笑顔から何かを読み取ろうとしてアレクが静かに見つめる中、カルラは両手を腰の高さでそっと小さく広げて見せた。
「同じくユレシュ様に仕えるものとして、当然のことをしたまでです。何も気にすることはありません」
聞き慣れない名前に、アレクは小さく眉を寄せた。係長の名前はレフで、課長は確かウラディミル、部長以上は良く知らないが、果たしてユレシュという男はいただろうか。それどころかカルラは研究医だった筈で、府からして同じ筈が無い。ぐらついた静けさにまかれて、アレクは苦し紛れに白状した。
「すいません、俺はその、ユレシュって人とお会いしたことすらないんですけど……やっぱ、偉い人なんですか?」
アレクが目を泳がせながらちらちらとカルラの表情を伺っていると、カルラは青ざめたため息をつき、芝の上にへたり込んでしまった。広がった白衣から、青いチュニックと白い膝が飛び出している。
「そ、そんなにがっかりしなくても」
落ち込んだのを隠しもしないカルラの仕草に耐えかねてアレクは小さくこぼしたが、それに答えたカルラの言葉は更に信じ難い物だった。
「よかった、彼とは無関係だったのですね」
かろうじて分かるのは、どうやらこれが良い方の人違いらしいということだけ。カルラの隣に腰を下ろし、アレクは素直に訊ねてみた。
「それで、何が起こってるんですか? この夢の中では」
何も可笑しなことは言っていないのに、カルラは間の抜けた顔でアレクを見つめ返した。カルラは東洋系なのか、あどけなさの残るほっそりした顔をしている。
「夢……そうですね。確かにこれは夢ですが……危険な夢です。あなたにとっては、恐らく。ましてこの夢を見たことが党に知られれば、むごい結末を迎えることになるでしょう」
カルラは影の中に目を落とし、彫りの浅い顔が陰に沈んだ。
「む、むごいって、なんでそんな……」
たじろぐアレクの目をまっすぐに見つめ、カルラは鋭い釘を刺した。
「党の中には、己の野心のためにエッシャーの城を利用しようとしている者がいるのです。この城に入り込むためなら、彼らは手段を選ばないでしょう。それこそ、あなたの事を解剖してでも」
カルラは、その連中と戦っているのだろうか。
「そうでなくても、いずれ彼らはこの城への入口を見つけてしまう……そうなる前に、手を打たなければないのです」
ああ、そうか。アレクはカルラを見つめ返し、それから間の抜けた声を上げた。、
「それがその、ユレシュとかいう?」
カルラは表情を変えず、首だけを小さく縦に振った。
「ユレシュはかつて、公安の下で洗脳法を研究していた男です。表向きは事故で死亡したことになっていますが、恐らく彼はまだ生きています」
途中で何度も頷きながらアレクは話を聞き通し、それから埃を払って立ち上がった。
「分かりました。この夢の事は、秘密にしておきます」
柔らかな風がそよぎ、瑞々しい輝きが刈り込まれた芝を撫でた。
「分かって頂けて、ほっとしました。私の名前はカルラ。もしよければ――」
カルラは立ち上がり、アレクに願い出た。
「――私に貸してください。あなたのお力を」
カルラの眼差しに射抜かれ、アレク思わず右手を差し出した。
「そういうことなら、喜んで……アレクです。よろしく」
二人はぎこちない握手を交わし、それからカルラは城の案内を始めた。
「アレクさんは、どうやってここに?」
庭には手入れが行き届いており、二人が足を踏み出すたび、芝のしなる清々しい音がする。アレクは訊ねられるままに、身も蓋もない答えを返した。
「霧の中から出る時に、風上に行けって言われたから、逆に風下に行ったらどうなるのか知りたくて。声の正体も知りたかったし……」
カルラは立ち止まり、アレクを振り返った。
「いえ、そうではなくて――最近手術を受けたのではありませんか? 脳外の」
カルラは瞬きする他に殆ど顔を動かさず、すらりと冴えた面持からは思惑が読み取れない。覚えのない話を振られて、アレクは小さくたじろいだ。
「手術? 気絶したときに受けたのかもしれないけど、そんな話聞いてないですよ……ああ、いや、でも、あれが?」
顎に手を当てて迷いだしたアレクに、カルラは思いきり詰め寄った。
「何か心当たりが? 話してください。それが――」
件の科学者につながるヒントなのだろう。アレクの脳味噌が、本当に改造されていたのだとしたら。
「レントゲンを撮った時に、脳味噌の、ええっと、この辺かな? 縮んでるって言われたんです」
アレクはのけ反りながら、こめかみを囲む円を人差し指で描いた。
「間違いない……ですが、一体何故そんなことが? 感染症? 薬物?」
カルラは顎に手を当て、険しい顔で考え込んでいる。
「そんな物騒なもんじゃなくて、冷媒の――いや、違う……」
記憶につながる細い糸が手足の芯で俄かに引き寄せられ、アレクは鋭い動きで配電盤から顔を背け、両腕で頭を庇った。
「熱っ! 火花だ! 配電盤が、配電盤が……漏電して……」
芝生の上にはいつくばり、芝を握りしめながら、しかし、アレクの息は次第に穏やかになってゆく。
「電気ショック? そうか、確かに電気ショックで開きかけた仲間が……大丈夫ですか?」
カルラに背中をさすってもらいながら、アレクは身体を起こし、その場に胡坐をかいた。
「大丈夫、ですけど、何だってこんな大事なことを?」
片手で顔を覆うアレクを見て、カルラは事もなげに答えた。
「精神科で治療を受けたのでしょう、恐怖症か何かを治すために。あなたは忘れている筈ですが、あなたが今まで受けてきた治療の多くはそういった類のものです」
定期的に診察を受け、嫌なことがあった時はなるべく早く医者に話す。それは当たり前の健康法であり、キリスト者の義務であり、一種の娯楽でもあった。
「それは……俺の人生は、何か、もっと違うものだったってことですか? 今俺が知っているのと」
アレクがカルラを見上げると、カルラは素直に頷いた。
「ええ、ですが、それ自体は悪いことではありません。都合の良い物語を受け入れる事で、実際人々は幸せに生きています……思い出しさえしなければ」
だが、アレクは思い出してしまった。幸せな夢から脱線し、霧の中に放り出されたという訳だ。眠たげなカルラの瞳に理由が見えはしないかと、アレクはじっと黒い眼差しを見つめた。
「俺も……忘れていたはずだったのに、一体どうして?」
カルラは立ち上がると裾を払い、芝の葉を落とした。
「あなたがこの城を見つけたからです。うわべでは忘れていても、エッシャーの城には記憶が残っていた……この城は、全ての魂が眠る『玄室』だから」