ふたり回し

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水蛇の塔(一八六四年五月廿日)

終に大事件発生?


 昨夜は女子供に天幕を譲り野宿をする羽目になつた為、皆一様に隈を浮かべてゐる。村では流された家屋の建て直しが始まり、アランとボリスを手伝ひに向かはせた。私はミシエルと共に遺跡の汚損を確認。回廊の石材は土砂に埋もれてゐるものゝ遠く流されては居らず我々は安堵した。寧ろ最大の問題は石室内部に流入した土砂で在る。土砂に依る汚損のみならず壁面の彩色画が湿つた為黴に依る被害が懸念され、アランとボリスを呼び戻し全員で石室の土砂を掻き出し布で水気を拭取る事丸一日、努力の甲斐有り壁画を乾燥させる事は出来たが泥の染みが残つて仕舞つた。其の代りアランが作業中天井に壁画を発見、描かれてゐたのは盃を飲み干す女王の姿で在つた。此の壁画が先に見附かつてゐれば斯くも困難な推察に挑む必要も有るまいに、皮肉な物で在る。本日特筆す可き事項は他に無いが、昨日の出来事を纏めねば成らぬ。一日空いた御蔭で事態の全容が見えつゝ在る事を幸いと考える可きで在らうか。

 十九日昼過ぎ、俄かに空が暗転した。此れは一雨来るやも知れぬと作業を中止し機器を纏めてゐた處、見て欲しい物が有ると学生達が押し掛けて来た。遊び半分で振子の呪ひを試した處、呪ひに用いられたボリスの懐中時計が俄かに凄まじき力で引き千切られ北の森へと飛び込んでゐつたのだと云ふ。彼等は恐るヽ時計の下を掘り腐りかけた木箱を発見し、其の中から赤土色の器が出て来たのださうだ。

 件の器を受け取り私は其の正体を悟り急いで器を箱に戻すやう学生達を怒鳴り附けたが、豈計らんや、すかさず突風が器を攫つて仕舞つた。風雨は際限無く苛烈さを増し濁流が将に村落を飲み込まんとする地獄絵図の中、私は案内役の男を引き連れ再び長老の家に赴き伝承の真相を問ひ詰めた。長老は箱を掘り返した我々を咎め罵詈雑言を撒き散らしたが、手前がラアヤと白い竜を隠匿してゐた事は先刻承知の事実で在る、疾しい事実が在るのだらうと逆に捲し立てると終に長老は重たい口を開いたのだ。

 長老の告白は俄かに信じ難い物で在つた。曰く、彼女はラアヤと従姉同士なのだと云ふ。幼少期には仲が良く偶には遊んで遣つたものだと本人は語つたが、ウイシヤが神の怒りを買い長老が次の生贄に選ばれた際、彼女は見て仕舞つた。意中の少年がラアヤと親しげに話し、彼女の事を憐れむ姿を。剣を折つた男の娘を生かして置いては村の為に成らぬ、此の家の跡継ぎに私が必要ではないのか。長老が当時村長で在つた母親に生贄にラアヤを選ぶやう訴え此の願ひが聞き届けられたのだ。

 にも関はらずラアヤは無残に殺される筈が川の神の寵愛を受け村人から神と等しく扱はれるやうに成り、長老の自尊心は大いに傷付けられ、増して件の少年がラアヤを取り返さうと祠に赴いたと聞かされては心中穏やかな筈が無い。だが、斯様な折に運良く意趣返しの機会が訪れた。バギラとの不和を解決する為ラアヤが仲直りの方法を相談しに来たのだ。

 長老は赤い鳥の羽をあしらつた衣装を手渡し必ず気に入られると太鼓判を押し、ラアヤが着替える其の隙に祠に駆け付けバギラを唆した。ラアヤの心を取り戻すには贈り物が良い、北の森に棲む赤い鳥の羽根で髪飾りを作つては如何か、と。長老は戻つて来たラアヤにバギラの居場所を教え、バギラは彼女を赤い鳥と間違へ自ら射抜いて仕舞つたので在つた。

 バギラの怒りは留まる處を知らず、風は木々を押し倒し、滝のやうな雨が流れ、黒く濁つた川の流れは川岸を削り取り堤防を越え瞬く間に村を飲み込んで仕舞つた。村の物は空を翔ける蛇の影を呆然と眺めてゐたが、其の時雲間から一条の光が覗き黒い影に近附いたのだと云ふ。雪の如く白い竜は黒い竜と並んで飛び、軈て二匹の竜は舞ふやうに互いの周りを回り始めた。

 長老は此れ幸いと祠に赴き川の神の神体を探した。此の時の長老には当てが有つたのだ。ラアヤの父親が損なつたのは祭壇に飾られた剣で在つた。其の際神が傷一つ受けなかつたは、祭壇に飾られた剣が神体ではなく人の目を欺く為の贋物で在つた為。そして祭壇に供えられた物の中で剣の外に動かしてはならぬのは只一つ。捧げ物を供える器だけで在る。盗み出した器を呪い道具の箱に納めて北の森に隠した處、二匹の竜は姿を消し以来一度も姿を見せる事は無かつたのださうだ。

 但し、長老は付け加えた。黒い竜の力は全く途絶えた訳では無い。嵐が止んだ其の日の夜川の神は長老の枕元に現れ、醜い老婆の姿に変えて仕舞つたのだ。彼は己が目覚めた時長老は死すと予言し、其の日までに死ぬ事の無いやう長老に呪いを掛けた。此れが、長老の語つた全てで在る。


 器の失はれた今川の神を封じ込める術は無い。諌める事の出来る只一人の娘も今は居らず、最早滅びを待つばかり。長老は立ち上がると覚束ぬ足取りで川縁に近づき、其れを待つてゐたかのやうに川岸が崩れ去つた。長老を飲み込んだ黒い流れを前に私は祈りを捧げたが、異教の地に御業は起こらず。起こらないが、長老は正しい事を一つ謂つて呉れた。ラアヤだ。彼を止められる者はラアヤを置いて他に無し。氾濫した川の流れに逆らひ野営地に駆け上がり資料置き場でラアヤの名を呼んだ處、木箱を纏め縄で括る学生達の間に果たして彼女の姿が有つた。私が事情を話すより早く、バギラの下へ連れて行けと謂ふ。学生達の制止を振り切り積み上げられた木箱を崩しラアヤの箱を引つ張り出すと私はアランを怒鳴りつけ反対側を持ち上げさせた。急げ、寺院の祠堂へ、一刻も早く。

 疑心暗鬼の学生達を強引に手伝はせ木箱を寺院へ運び込んだ時には、既に石畳が水没してゐた。滑り易い足場を後ろ向きに昇らされては、ミシエルも生きた心地がするまい。やつとの思ひで第三層に辿り着き祠堂に探し物を持参した旨を宣言したものゝ嵐の止む気配は無く私は肩を落としたが我々の労苦は無駄ではなかつた。木箱の中から白い光が飛び出し波打ち乍ら天へと昇り行くではないか。

 白い竜。長老が見た白い竜の正体はラアヤだつたのだ。バギラを追ひ駆けるラアヤの姿は私の疑問を氷解させた。壁画に竜が描かれぬ所以は神が既に描かれてゐた事に他成らぬ。彼の女性は神に祈りを捧げてゐたのではなく、自ら川の流れを鎮めてゐたのだ。祠堂の女神像が示す處の物が女官の仕える主ではなく神格化された女王で在つたと仮定すれば。石室の遺骸達が、そして祠堂に捧げられた生贄達が其の力で川を治める白い竜の一族で在つたと仮定すれば。蛇を象る装飾品の数々にも彼女達が儀式で殺された事にもバギラが生贄を村長の家系から出させた事にも説明が附くではないか。

 神権政治に於いて王が殺される事は珍しくない。王の資格とは超自然的な力の強さで在り、力の衰えた王は新たな王に挿げ替えられる物なのだ。石室の女性達も先代の女王を葬り血の盃を飲み干す事で後継者、或は同じ魂を持つ新たな体として認められたに違ひ無い。そして黒い竜に由り此の儀式は女王の血族を摘み取る儀式へと摩り替えられた。孰れ竜の力を持つ娘が生まれ落ち己の地位を奪ひ返される事をバギラは恐れてゐた為だ。白い竜の女王は黒い竜の妻へそして只の生贄へと失墜し漸く彼の地位は愈々盤石の物と成つたので在る。

 白い影は雲間を縫い長老の語つた通りに黒い竜に寄り添うと楽しげに踊り始めた。永い時を経て二人は二度目の再会を果たしたのだ。学生達が滑稽にも恐れ戦く中私は目を細め、次第に明るく移ろふ空を眺め乍ら巴里の家族の事を思つた。愛想を尽かされる前に仏蘭西に帰らなくては成らぬ。