空前絶後のスパルタが始まる!!
6月4日の昼下がり、鉛色の街を乾いた雨が掻き毟っている。
水浸しのグラウンドからは激しく飛沫が上がり、アスファルトを覆う膜は真っ白だ。
「中間はルーチンを無難にこなすだけの前哨戦に過ぎん。真の実力が問われるのは期末だ……」
向かいのアパートの廊下を歩いていた若者がふとこちらに振り向いたかと思いきや、目が合った途端手提げを抱えて一目散に駆け出した。
昼間に人目を気にする挙動不審な若い男。
よもや空き巣ではあるまいな。
「クラスで6番なら自慢できる範囲じゃない? そもそも中学とは相場が違うんだし」
実に嘆かわしい。
成績を環境のせいにしているから、お前はいつまで経ってもジョニーのままなのだ。
「相場だと? 平均と比べてどうする? 俺はお前と違って、あの糞兄貴に吠え面をかかさねばならんのだぞ」
大会で結果を残しつつも、決して学業を疎かにしてはならない。
早慶は最早最低ラインだ。
「その執念があれば大丈夫だよ」
健全な目的かどうかはともかくとして。
パラガスに皮肉を返そうとしたその時、尻ポケットでアクオスが震え出した。
カードゲームのグループに、八汐さんの思い付きが投下されている。
『大会前に夏季合宿を開こうと考えているのですが、7月第5週から8月の第1週にかけて集まれますか?』
初耳にして最後の確認か。
宿泊地はおろか役割分担からに献立に至るまで、全てが決定事項なのではないかなどと疑うのはそれこそ杞憂というものだろう。
我らの書記長が分単位で俺たちの生活を管理したいという衝動に支配されていたとしても、肝心の特訓メニューは恐らく俺の監修なしではまとめられまい。
「合宿だなんて本格的だね。僕らは選手じゃないから、雑用係のような気がするけど」
パラガスはともかく、俺はインストラクター枠だ。
トリシャは優れた理論派のビルダーだが、メタゲームを知悉しているわけではない。
それも地方大会ではなく全国大会の予選となれば、環境と対策の両面で俺のノウハウが求められる。
敵に塩を送る程愚かではないが、他の二人が勝っても実は俺の手柄だという認識が広まるならば話は別だ。
桂馬一枚しかなかった手駒に、飛車角が加わるのだからな!
「しかし高3で暇を持て余しているとは、いいご身分だな」
エスカレータや推薦の方があの人らしいと言えばらしいか。
俺のボヤキを黙殺し、パラガスは返事を送ってしまった。
「僕はとりあえず両親の許可を取るよ。おじさんたちも、もう帰って来てるんでしょ?」
思い出すと、今でも腸が煮えくり返る。
兄貴の卑劣な密告を受け、両親が帰ってくるなり険しい尋問が始まった。
どこで知り合っただの、どこまで進んだだの、府立医大を出ているくせに母の趣向は無趣味な大衆そのものである。
どうせ旅行の間も、息子の醜聞で持ちきりだったに違いない!
「言うなパラガス、今から気が重くなる」
まさか武士、あのお嬢さんも来るんとちゃうやろな!
駄目だ、最早それ以外何も聞かれない気がする。
八汐さんの思い付きについて報告するどころか、顔を合わせる事さえ気まずい。
『みすまる』でなるべく粘って、いや、いっそのことKの真似をしてパラガスの所にでも転がり込みたくなる。
ところが『みすまる』で俺達を待ち受けていたのは、この連絡を上回る悲報であった。
「7月の合宿、補習で出られんかもしれへん」
は?
あまりにふざけた自白に、俺は思わずテーブルを叩いた。
ウチには全員参加の補習が数日あるが、Kのヤンキー高にそんなものがある筈がない。
「オオ! これが日本の赤点というものでオジャルな!」
トリシャにとってはさぞ新鮮な事だろう。
だがそれはフランスに赤点がないからではなく、トリシャさんが赤点を取れるテストが滅多に存在しないからだ。
無論俺も八汐さんも、パラガスでさえ赤点を取った事など恐らくは一度もない。
白い顔で震えながら冷や汗を流している当の怠け者を除いては。
「パティ、面白がる事ではありません」
蛍さん、どの教科で困っているんですか?
他力本願なKのことだから最初からアテにしていそうだが、知ってか知らずか八汐さんは既に乗り気である。
期待を遥かに上回る地獄の特訓が始まっても俺は知らんぞ。
いや、寧ろ合宿の猛度を推しはかるには丁度よい物差しか。
「数Ⅰやろ? 数Aやろ? ライティングやろ? 古典やろ?」
Kは指折り赤点の教科を数え出した。
一つや二つどころか、4教科で打ち止めの気配さえないのだから呆れを通り越して恐れが湧き上がってくる。
「化学やろ? 後は……」
手遅れだな。
暗記科目だけならともかく、一か月で数学が上達することはそうそうない。
得手不得手の次元ではなく、小学校レベルの素地が欠けているのである。
「世界史や」
4月からこちら、carnaにかかりきりだったとはいえ、多少なりとも点数が取れた教科は全体の三分の一。
正に『何ということでしょう』と評すべき惨状だが、アフターが約束されているわけではない。
「一夜漬けでも70点位は取れそうな物でオジャルが……」
トリシャなりに手加減をした目算なのだろう。
直前に10分眺めて90点を取れる記憶力があるのだから。
「したし! スイッチ入るまでに時間かかっただけやし!」
八汐さんはさらに次のテストの範囲を聞き出し、ルーズリーフにリストを作成してゆく。
現状を無視した楽観論のお粗末さはKの成績と五十歩百歩だが、怒りも笑いも絶望もしないのだから人徳は本物だ。
「現状は概ね理解できました。後はテストの難易度次第ですね」
点数が取れた教科も含めて、明日問題用紙を持ってきてください。
八汐さんは両手をテーブルについて勢いよく立ち上がった。
この後用事でもあるのだろうか。
「それじゃあ、また明日」
「お疲れっした」
「さようなら」
「サラバでオジャル」
パイプ椅子にべったりと腰を下ろしたまま八汐さんを見送ろうとしたところ、八汐さんは眉間に皺を寄せ俺たちを叱責した。
「何をぼんやりしているのですか! パティの部屋に場所を移します!」