ふたり回し

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☶☴(山風蠱)――乙

15話から25話を一括。

甲より続く


 地下水路には、冷たく、そして湿った風が流れていた。冷えきった手足が水滴に覆われ、水気を吸った衣が体にまとわりつく――山の上で雲に呑まれた時と同じだ。

「驚いたな。まさか足下にこんな空間が広がっていたなんて。ここは――外とはまるで違いますね。どこまで続いているんですか?この通路は。」

 水浸しの下り坂を注意深く進みながら、シャビィは明るい声で訊ねた。リシュンの背中越しに見える行く手は、墨色の霧に閉ざされ、分厚い帳の奥から濡れた足音を送り返してくるばかり。このまま地の底まで続いていてもおかしくない。

シャビィさん、もう少し声を押さえてください。追手がいないとも限りません。寺院の外に出ただけで安心されては困ります。」

 リシュンは振りかえることなく、低い声でシャビィをたしなめた。

「すみません、少々舞い上がってしまったようです。」

 おとなしく引き下がったシャビィに、リシュンは細長い説明をこぼした。

「この水路は海まで繋がっていますよ。斜面に沿って蜘蛛の巣状に広がり――」

 十字路だ。手にしたランプの暗がりで湿った石壁を舐め、三日月の形をした印を見つけると、リシュンは険しい顔つきのまま、小さく息をついて再び歩き出した。

「――ナルガ中に走っているのです。それこそ、隅々まで。」

 足下に現れた大きな水たまりを、リシュンは助走をつけて飛び越えた。ごくごく軽い足音のはずが何度もこだまして聞こえるのは、重くて冷たい霧と一緒にこの水路が物音を閉じ込めているためだろうか。

「よくこんなものが作れましたね。素材だって――」

 シャビィは水たまりを飛び越えようとしたが、天井でしたたかに頭を打ってしまった。むき出しの浅黒い頭を、ひと筋の赤い血が流れている。

「この水路は大部分が岩盤をくり抜いただけの代物ですよ。くりぬかれた石が、街を作るのに使われたと聞いています。」

 道理で天井がごつごつしている訳だ。リシュンが無造作に取り出した手拭いを、シャビィは恭しく受け取った。

「ありがとうございます。染みになってしまいますね、これは。――ああ、そうか。ナルガはもともとタミル人の街でしたね。」

 傷を押さえる反対の手で、シャビィは滑らかに波打つ壁をさすった。この壁も、もとは天井と同じく荒削りだったのだろう。人の手ではなく、水路を流れる水が削ったのだ。

「タミル人?バムパの?」

 意外な名前に、リシュンは首をかしげた。商用でナルガを訪れるタミル人は珍しくもないが、彼らの祖国バムパはナルガのあるカヤッサ半島からはるか東に位置している。

「4世紀ほど前、バムパがこのあたりまで広がった時期があるんですよ。彼らはずば抜けた治水や建築の技術を持っているそうです。実物を見るのはこれが初めてですが……」

 リシュンは床からランプを持ちあげ、恍惚とした表情で岩壁を愛撫しているシャビィを急かした。

「やはり禅師だけあって博学ですね。また他の土地の話も聞かせてください――勿論、またの機会に。」

 リシュンは小さく肩をすくめて見せた。

「すみません。また足を止めてしまいましたね。」

 いえいえ、と答えたときにはもう、リシュンは早足で歩き出していた。シャビィはさして低くもない天井に気を配りながら、黙々とリシュンを追いかけた。またの機会――またの機会を得るためには、なんとか今を切り抜けなければならないのだ。

 しばらく進むと、床は水平になった。滑りやすい足場に苦戦していたシャビィは突然与えられた中休みに胸をなでおろしたが、リシュンは急に立ち止まり、シャビィは危うくぶつかりそうになった。

「どうしたんですか?」

 リシュンの肩越しに前を覗くと、ランプのかげりを映す水面が見えた。寺院の下にあったものほどの広さはないが、ここもどうやら貯水池の一つらしい。一面に広がる白い画布の上に、ほの暗い柱が何本か伸びている。

「助かりました。リシュンさんに止めてもらわなかったら、あのまま水槽に飛び込むところでしたよ。」

 シャビィの謝辞等気にも介さず、リシュンは広間の入り口に立ち止まったまま左右を見渡している。緊張した面持ちで周囲を探るリシュンの様子につられて、シャビィも固唾をのんで底なしの光を見守った。何やら、行く手から幾つもの足音が聞こえてくる。

「こちらです。急いでください。」

 何が分かったのか、リシュンは右手に向かって走り出した。大きな音をたてないように小さな歩幅で走り、二人は水槽の縁を辿って細い横穴に滑り込んだ。

「念のため、ランプの影を体で隠して下さい。物音は絶対立てないように。」

 手渡されたランプを庇いながら、シャビィは小声でリシュンに訊ねた。

「追手でしょうか。」

「向きが違います……しっ!」

 足音は、ぐんぐん近づいてきた。二人はじっと息を殺して横穴の中にうずくまって足音をやり過ごそうとしたが、足音は小さくなるばかりか、一向に大きく、鮮やかになるばかりだ。ランプの把手を握る手は、寒さに震えながら汗をかいている。ついに足音がひと筋やふた筋のところまで迫り、貯水池に入ってくるかのように思われたその時、水路の奥で大きな音がした。

「コソ泥め、手こずらせやがって!」

 遠慮のない罵声の応酬は、冷えきった霧を震わせ、水路を延々と駆け巡るかのように思われたが、拳が飛んだのだろうか、鈍い音がすると途端に止んでしまった。リシュンの顔からはいつの間にか険しさが抜け、瞳には軽やかな光が灯っている。追手達の会話はぼそぼそと聞き取りにくく、それもすぐに終わり、今度は盗人が引きずられる音が聞こえ出した。シャビィは自分が身を乗り出していたことに気が付き、はっとしてリシュンを振り返ったが、リシュンにも咎める気はないらしく、じっと遠ざかる摩擦音に耳を傾けている。そのまま音が光の奥へと沈んでゆくのを確かめると、二人は大きく息を吐き出した。

「今のは一体……」

 恐る恐る振り向いたシャビィの口から、なけなしの緊張が抜けていく。地下道に戻ってきた静けさの下には、しかし、今までとは比べ物にならない数の悪意が蠢いているのだ。

「大方、捕物でしょう。夜盗はこの道をよく使いますし、夜景も同じくよく見周りをしています。」

 リシュンはいつの間にか立ち上がっていた。

「無論、どちらにも見つかりたくはありませんね……それと、念のために一つ細工を施しておきましょう。」

 リシュンが差し出した手に、シャビィは手拭いを返そうとしたが、げんなりした顔に気が付き、ぎこちない手つきで後生大事に抱えていたランプを手放した。

 シャビィが手招きに従って道をあけ、水槽の縁を歩くリシュンの後ろ姿を見守っていると、リシュンは通ってきた道の入り口に屈み込み、チョークを使って落書きを始めた。いかがわしいまじないの類だろうか。こっそり近づいて後ろから覗きこもうとしたシャビィに、リシュンは投げやりな説明をよこした。

「最初に通った十字路に印があったでしょう?あれの相方です。」

 これも三日月だが、確かに向きが違う。あるいは、二十七日の月なのかもしれない。最後に弧の内側から中央に向かって矢印を引き、リシュンはランプを持って立ち上がった。

「これで心配ないでしょう。あと少しです。」

 水槽の縁を伝い、リシュンは足音が聞こえてきた入口に向かって歩き出した。さすがに夜警はもう行ってしまった後だろう。一瞬ためらってから、シャビィも及び腰で後を追い、リシュンの待つ水路の入り口に辿りついた。

「驚かれては困りますから、シャビィさんからお先にどうぞ。」

 リシュンからランプを受け取り、シャビィは促されるまま水路に入りかけたが、入る直前になって振り返ってしまった。

「何か?起こるんですね?」

 リシュンの涼しい笑顔が、心なしか強張っている。

「振り向かずにまっすぐ進めば差し支えありません――さあ。」

 口では勧めながら、リシュンは両手でシャビィを無理矢理押し込んだ。次の瞬間、シャビィの目の前でリシュンが消え去り、両手だけが宙から生えてきた。

「わ、あわわ、」

 宙に浮かんだ両手の背後には、霧立ちこめる明るい水路がまっすぐ伸びている。シャビィが自ら後ずさったのを確認すると、リシュンもゆっくりと歩き出した。風景を破って、リシュンの姿が浮かび上がる。

「素直にまっすぐ歩けばよいものを――」

 ランプを振った手が小刻みに震え、ヤシ油が零れかけている。真っ青になったシャビィを見て、リシュンは珍しくあけすけに溜息をついた。

「リシュンさん、何が起こったんですか?」

 シャビィの手からランプを取り返し、リシュンはゆっくりと地面に下ろした。

「ただの近道ですよ……ほら、そこにもさっきの印があるでしょう?」

 リシュンが目配せした先に書かれた印を、シャビィは食い入るように見つめた。これは十字路になったものと同じだ。三日月の子から中に向かって矢印が引いてある。

「こんなもので……本当に行き来できるものなのですか?その、離れたところを。」

 シャビィは難しい顔を印に近づけてよくよく検めたが、普通のチョークで印が書いてあるだけで、他に仕掛けがあるわけでもなさそうだ。

「もう一度通って見せましょうか?」

 リシュンはその場で出入りを繰り返して見せた。シャビィは始め身構えたものの、じきに肩から力が抜け、むしろリシュンが浮き沈みする様子を唸りながらしげしげと眺めだし、しまいには自ら向こう側を覗きこむに至った。

「リシュンさん、これは、両側に跨っているとき反対側からどう見えるものなんですか?」

 呑気な質問に、リシュンは適当な返事をよこした。

「見たことはありませんが、陰が当たっていないから白く見えるでしょうね。」

「ここに立ったまま印を消したら?」

「千切れます。」

「私にもできますか?」

「印を正しく書けば。」

「そうだ!……何だったかな?気になることがあった筈なんですが……」

「無理に思い出さなくても結構です。」

 印を消すから、早く出てきてください。リシュンが印に近づくと、シャビィは血相を変えて飛びのいた。が、作業が始まる気配がない。懐を探る仕種に気がついて、シャビィは手拭いを差し出した。

「これですよね?お返しします。おかげさまで、血もすっかり止まったようですから。」

「え、ええ。ありがとうございます。」

 うっかり礼を述べてしまったリシュンに、シャビィは不器用に微笑みかけた。

「こちらこそ、どうもありがとうございました。」

 手拭いを受け取ると、リシュンは何も言わずにチョークを拭き取り、ランプを手に立ちあがった。

「さあ、これで一まずは安心です。念のために窺いますが、シャビィさん、寺院から匿ってもらえそうなあてはありますか?」

 シャビィは苦笑して、後頭部をさすった。

「いえ、寺院の頼みとあらば匿って来れそうなところしかありません。私の知り合いは、殆どが寺院の人間ですから。」

 それも、初めて訪れたナルガとなると絶望的である。リシュンは淡々と相槌を打ち、それから、シャビィに取引を持ちかけた。

「では、私が匿うことにいたしましょう。そのつもりでここまで連れてきてしまいましたからね。少々手狭なのは我慢して頂くとして――その代わりに、一つ手伝って頂きたいことがあります。」

遠くで水の滴る音がした。二人を包む薄い霧がかすかに震え、再びゆっくりと静まってゆく。

「何をすればよろしいのですか?」

 シャビィは努めて平静に聞き返した。堅く、まっすぐな、そして張りつめた声だった。

シャビィさんにとっては、寺院の不正を暴き、これを止めさせることです。」

 リシュンの声にためらいはなかった。ただ、字義の上に含みがあるだけだ。シャビィは静かに目を瞑り、そして最後の退路を打ち捨てた。

「お手伝いさせてください――」

 リシュンさんの目的が、何であっても。


 リシュンはシャビィの目を見つめ、静かに頷いた。

「それでは参りましょう。この先に井戸があります。」

そこから井戸までは、いくらも離れていなかった。リシュンについて歩いてゆくと、すぐに広い空間が現れ、シャビィにもそれが貯水池であることが分かったのだろう、

「リシュンさん、梯子は?」

 と訊ねてみせた。リシュンが応える代わりに掲げたランプの暗がりに、鈍い陰りを放つ真鍮の梯子が浮かんでいる。リシュンはランプをシャビィに預け、素早く梯子を上って井戸の蓋にそっと手をかけた。小さな隙間から射し込む陰は、地下に慣れた目には重すぎる。リシュンの姿は夜に塗りこめられ、すっかり見えなくなってしまった。

「誰もいません。紐を落しますから……ちょっと待って下さい。」

 気が石にぶつかる、鈍い音がした。外に吹く夜風に吸いだされて、貯水池を覆う霧が陰の柱を昇ってゆく。

シャビィさん、ここまでランプを持ちあげられますか?」

 掘り抜きの井戸と違い、ナルガの井戸はごく浅い。うっすらと水面に映ったリシュンの影を頼りに、シャビィはランプの底を掌にのせ、なんとかリシュンに手渡した。ランプの底は温まっていたが、火傷するほどではない。リシュンが登りきるのを待って、シャビィも梯子に手をつけ、滑らないようにゆっくりと登った。家々の影や床下の明るみ以外はほとんど何も見えないが、磯の香りがかすかに混じったすがすがしい大気は、紛れもなく地上のそれだ。

「なんだか随分と久しぶりに太陽を見た気がしますよ。それに、身体が温まって……生き返ったような気分です。」

 大きな体を思い切り伸ばして、シャビィは満面の笑みで外気を胸いっぱい吸い込んだ。見上げる空はどこまでも深く、青い。

「ついてきて下さい。足下に気をつけて。」

 壁に手を突き、階段を上りだしたリシュンに、シャビィはなんとか追いすがった。暗くて段がよく見えない。気を抜けばすぐにでも足を踏み外してしまうだろう。闇に呑まれた広場の中で、家々の床下と嵌め殺しの窓だけが煌々と輝いている。

「ここは街のどのあたりなんですか?」

 先を行くリシュンに、シャビィは控えめな声で訊ねた。頭上の窓から、高い鼾が聞こえてくる。

「島の東側に住宅街があるでしょう――しょっ。」

 革が石を叩く乾いた音がした。

「そこ、段が欠けています。気をつけて。」

 シャビィは空いた手を前にかざして、足下の陰を払った。影のないリシュンは、一体どうやって歩いているのだろう。

「その住宅街の、一番北側です。」

 シャビィにも、伝聞だがある程度の地理は分かる。北側ということは、大通りから一番離れた地域だ。影のずれている方向、恐らくは海があるはずの方向、恐らくは海があるはずの方向を、シャビィ横目に確かめ、言葉を失った。まばらに穿たれた光の窓の向こうに、淡い光を帯びた海が一面に広がっている。ゆっくりと海の底を這う波頭の影に乗って、温かな潮風が寝静まったナルガの街を駆けあがってきた。指先に絡みつく粘り気の強い風は、塩辛くもどこかほろ苦い。

「リシュンさん。」

 潮の味をかみしめながら、シャビィはリシュンを呼びとめた。

「私はナルガに来たばかりにひどい目にあいましたが……捨てたものではありませんね、この街も。」

 目の前に広がる夜から、透き通った笑い声が返ってきた。

「ええ、ナルガのような薄汚い街にも、二、三はよいところがあるものです。この海はその一つですね。それとシャビィさん、階段がここで曲がっているので、とりあえず私のところまで登ってきてください。」

 リシュンにぶつからないよう、シャビィはそろそろと階段を登った。声のありかに近づいたところで手を差し出すと、ほっそりとした温かい手が、しっかりとシャビィを捕まえた。

「足を踏み外さないで下さい。ここから落ちるとただごとでは済みませんよ。」

 リシュンははシャビィの手を掴んで、家屋の隙間に引っ張りこんだ。下からは見えなかったが、ところどころ顔料が剥げた板張りの壁の間に、細い階段が続いている。裏道は、家々の影のおかげで随分と明るく、ゆるやかに曲がっているのが分かった。

「どうして階段に手すりがなかったんですか?」

 後ろを振り向きながら、シャビィが訊ねた。小道の入り口からは、暗く湿った風が流れ込んでいる。たなびく髪を払いながら、リシュンは答えた。

「昔はあったかもしれませんが、このあたりはだいぶ前に寂れてしまったそうです。あまりつかわれないので、直そうとする人もいないのでしょう。」

 なるほど、民家は多いが生活の匂いは薄い。階段の上に散らばった植木鉢の破片を踏まないよう、シャビィは足下を見て歩いた。寝静まった裏路地は緩やかに弧を描いて、二人の足音を呑みこんでゆく。陶片の散らばった一角を抜け、小さなアーチの落した白い影をまたぎ、平らな道をしばらく行くと、小さなY字路が現れた。角に立つ古びた家は射し込む陰に沈み、既にうち捨てられてしまったのだろう、玄関の扉が失われて、明るい室内が闇の中に口を開けている。

「どちらですか?」

 片方の道は海の方に下り、もう一方の道は急な角度で山側に上っている。

「左です。」

 リシュンは急な階段を一段飛ばしで上りだした。狭い上にうねっているため、シャビィの肩は左右につかえてしまい、横歩きでついていくのがやっとだ。家並みの狭間を流れる薄い雲のかかった空に、リシュンの黒い影が浮かんでいる。

「随分と窮屈な街ですね。」

 息も絶え絶えにシャビィがかこつと、リシュンの影が振り返った。

「昔はこの界隈にも人が沢山いたのです。これだけ家だらけにしても、足りないくらいの人が。」

 仔細を訊ねる間もなく、リシュンの姿は家の陰に消えてしまった。脇道があるのだろうか。シャビィは急いで追いかけ、この階段に合流している別の階段を見つけた。漫然と上っていては、まず見つからない場所だ。明るい道はゆるやかに下り、大きな空き地があるのか、途中で闇に呑まれている。

シャビィさん、見えていますか?」

 大丈夫です。短く答えて、シャビィは小走りで坂を下り始めた。太陽の陰に沈んだ細い道の奥に、明るい階段が見える。坂道は次第に水平に近付き、再び登り始めたところで、シャビィはリシュンに追いついた。

「ここまでお疲れ様でした。この先の階段を上れば、もうすぐです。」

 空き地の前を通り過ぎると、上り坂は石段の下に消えた。波の砕ける遠い音と、家並みをかすめる風の音が聞こえてくる。

「井戸から結構歩きましたね。ここまでくれば、誰にも見つからないような気さえしてきますよ。」

 呑気なシャビィに、リシュンは笑いを含んだ声で相槌を打った。

「井戸からは泥棒も出てきますからね。でも、この先にも人が住んでいるのですよ。」

 階段を上りきると、リシュンの言った広場が現れた。細長い楔形の広場は、左右の家の間に撃ちこまれた格好になっている。左側の家は、見るからに水簿らしい。朽ちかけた木戸に、手書きのけばけばしい「福」の字がしがみついている。向かいの家の玄関はいくらか見栄えがよく、廂の影に浮かびあがった階段は広場の半分を占めるほどに大きい。そして、この奥に行くにつれて狭まる広場の突き当たりでは、小さな入り口がさめざめと無常を嘆いていた。

「ここがリシュンさんのお宅ですか?」

 初めて会った時にはしおらしいことを言っていたが、目の前に並ぶ家は汚くともみな二階建てだ。占い師も人気が出れば、なかなかの暮らしができるらしい。

「いえ、このままずっと奥に入ったところです。」

 リシュンは奥の入り口に向かって平然と歩きだし、シャビィは血相を変えてリシュンを引きとめた。

「リシュンさん、人の家を通り抜けるのは流石に――」

「大丈夫です。ここは通ってもよいところですから。」

 力が抜けた太い腕を振りほどくと、リシュンは気のない説明を始めた。

「見放された地区だと言ったでしょう?このあたりの家はどれも廃屋です。空家に貧乏人が勝手に住み着いているだけです。」

 入口の扉は無残に叩き割られ、馬鹿になった蝶番にぶら下がっている。シャビィは二の足を踏み、おそるおそる中を覗き込んだ。遠吠えを上げる下り階段に、リシュンの後ろ姿が吸い込まれてゆく。足音がしないことに気がついたリシュンは階段の下で振り返り、シャビィを呼んだ。

シャビィさん、大丈夫ですよ。この廊下は外の道と同じ扱いです。誰もとがめ立てはしません。」

 棘をはらんだリシュンの声に急きたてられ、シャビィは渋々屋敷に侵入した。細い下り階段は見かけよりも短く、奥には廊下が続いている。そのまま廊下を進んでゆくと、ふたりの前に夜が開けた。パティオだ。椰子の植わった一階に広々としたテラスが重なり、さらにそのテラスの上に二人のいる柱廊の影がかかっている。

「ここは……立てられたばかりの頃にはさぞ立派んお屋敷だったんでしょうね。」

 珊瑚の透かし彫りが施された手摺を撫でながら、シャビィは長い溜息を漏らした。随分とすり減ってしまってはいるが、目の整った大理石が使われている。

「今どきの富豪の邸宅よりもずっと大きいことは確かですね。このあたりには、他にも似たような屋敷が幾つかありますが。」

 見慣れたパティオに一瞥をくれてから、リシュンは再び歩き出した。柱廊を進み、突きあたりで左に曲がり、階段を登ってさらに上へ。最上階のテラスからは、今までで一番よく海が見渡せた。

「登りはここまで。後はこの階段を下ればすぐです。」

 隣の屋敷との間のわずかな隙間に、恐ろしく細い階段が隠されていた。まっすぐに伸びた石段は、左右を邸宅に挟まれているために夜中とは思えないほどの光をたたえている。

「どうしてこんな奥まったところで暮らしているんですか?」

 目を細めて急な階段を見下ろすシャビィに、リシュンは得意げに笑って答えた。

シャビィさん、ご存じないかもしれませんが、女の一人暮らしには何かと心配がつきまとうものなのです。」

 普通の女性なら水汲み一つでも苦労しそうなものだが、リシュンは先の近道をここでも使っているのだろう。階段を降りながら壁の上を探していると、月の印が見つかった。

「リシュンさん、それも近道ですよね。やけに中途半端なところにありますが。」

 シャビィは足下の印を指したが、リシュンは首を横に振った。

「いえ、これは――罠の一種です。」

 リシュンが印の前を横切っても何も起こらないのを見てから、シャビィは再び階段を下り出した。二つの足音が、石壁の狭間を刻んでゆく。

 そうして行き止まりの少し手前まで来たところで、リシュンが急に立ち止まった。リシュンが言うところの「罠」だろうか。リシュンの足下には、やはりチョークで書かれた月の印がある。リシュンは屈みこんで手拭いを取り出し、壁の印を丁寧に拭き取った。

「先に進んでください。印を書き直します。」

 蟹歩きですれ違うと、階段が少し折れ曲がってさらに奥へ続いているのが見えた。行き止まりに見えたのは、曲がり角だったのだ。眩しくてよく見えないが、少し行ったところに踊り場がある。近づくにつれて踊り場の様子は次第に明らかになり、古びた樫の扉や壁面に取ってつけたような素焼きの煙突が見えてきた。間違いない。今度こそ本当の行き止まり、リシュンの隠れ家だ。

「女の一人暮らしとは、実に難儀なものですね。」

 小走りで追い付いてきたリシュンに、シャビィは心からの同意を示した。


 リシュンが扉を押し開くと、錆びついた蝶番が小さく不平を訴えた。疲れ切ったランプの陰りの中に浮かび上がった部屋の広さは、一人暮らしがやっと営めるくらいだ。靴を脱いで茣蓙(ござ)に上がり、ランプの芯を引きだして火をそっと燈台に移しかえると、リシュンはランプを吹き消した。目を引くような調度はないものの、柔らかな陰のいきわたった部屋の中は清潔で、手入れが行き届いている。

「上がってください。お茶を入れましょう。」

 上着をベッドの背にかけて紙燭に火をとると、リシュンはかまどに薪をくべはじめた。火の粉がはぜる音に誘われ、戸口で立ちつくしていたシャビィはやっと部屋の中に入ってきたが、隅で畏まっている様子はどこか窮屈だ。

「どうかお構いなく。それよりも――」

 シャビィの言葉を遮ったのは、しびれを切らした腹の虫だ。蔵に閉じ込められてから丸一日たっているだけに、一旦気が緩むとどうにも収まりがつかない。

「食事を御所望でしたか――良い提案です。私も小腹がすいてきました。」

 柄杓で小手鍋に水を注ぎながら、リシュンは華やかに声を出して笑った。

「かたじけない。実を言うと、私は断食が一番苦手なんです。」

 大きな体の生み出す食欲は、目下のところシャビィにとって最大の難敵である。リシュンが米櫃から米を掬っているのを眺める物欲しげな視線に気が付き、シャビィは両手で自分の頬を叩いた。

「いっそのこと、鯵の干物も付けますか?」

 シャビィの様子に気がついて、リシュンは壁にぶら下がった干物の紐に手をかけた。振り向いた顔には、毒を含んだ甘ったるい微笑みが浮かんでいる。

「リシュンさん、わ、私には、まだ還俗するつもりはありません。」

 リシュンの誘惑を迎え撃つため、シャビィはありったけの力で肩をいからせた。この期に及んでまだ仏教にしがみ付こうとする往生際の悪さに、流石のリシュンもあいた口がふさがらない。

「遠慮するだろうとは思っていましたが――まさか今更寺院に戻るつもりではないでしょう?」

 シャビィは元々大きな目をむいてリシュンに訴えた。

「勿論寺院に戻るつもりもありません。でも、それは寺院にいると道が見失って――その、つまり……寺院から離れた方が、修行がはかどると思ったからなんです。」

 上ずってはいても、シャビィの声にはまやかしを突き通すだけの力がある。リシュンは肩をすくめて、釜の中の玄米に水を注いだ。夏場はよく大雨が降るが、井戸に溜められる水は限られている。余り無駄遣いはできない。

「リシュンさんが助けに来て下さったとき、何となくわかったんです。私はカタリム山で仏の教えを学んだけれども、だからといって老師たちが仏に背いても――もとい、ええっと……老師たちが、仏の教えに背いたことは、仏の教えが正しいかどうかとは無関係かもしれないって。」

 考えのまとまらないままにまくしたてるシャビィに、リシュンは釜を手渡した。

「表の洗い場に水を捨ててきてください。ちょうどこのかまどの裏です。」

 シャビィは目をしばたかせながら釜を受け取った。

「は、はい。」

 片手で釜を抱えると、シャビィは丁寧に扉を閉めて出て行った。リシュンは顎に手を当てて台所を見渡したが、買い置きを減らしているところなので大したものはない。少し考えてからコプラフレークの入った壺を取り出し、小皿の上にあけた。これでコプラももうおしまいだ。改めて見直すと、三年半の苦労の跡が、部屋中に見てとれる。戸棚、茣蓙、食器、テーブル、藤のベッド、占い用の折りたたみ机……この部屋に初めて入ったときには、本当に何もなかった。名前が売れるまでは食器や鍋をそろえる金もなく、貧乏に耐えかねて春をひさいだこともあった。茣蓙やランプは、その頃買ったものだ。ここを出ていくときには、殆どを置いてゆかなければならない。気心の知れた友人が引き取り手なのが、せめてもの救いだろうか。

 蝶番のきしむ音とともに、シャビィが外から帰ってきた。

「お待たせしました。」

 シャビィから釜を受け取ると、リシュンは念のために中を確かめた。大丈夫だ。米が減っているようには見えない。リシュンは腰を入れて釜を持ちあげ、小手鍋の隣に戻し、今度はたっぷりと水を注いだ。

「……それで、シャビィさんは山を降りて一人で修行するつもりでいると、そういうことでしょうか?」

 コプラを混ぜ込みながら、リシュンは訊ねた。米が釜にぶつかる音は、涼しく、どこか寂しげでもある。顔を上げたリシュンに、シャビィは頷いた。

「はい。それともう一つ、ちゃんと世の中を見て回ろうと思いまして。」

 リシュンは棚にコプラの入っていた壺を戻し、別の壺を取り出した。中に入っていたのはクコの実だ。ふたを開けて匙でかき出すと、鮮やかな赤が玄米の上に散った。

「皮肉なものですね。本当なら俗世を捨てて山に上るところを。」

 リシュンは溜息をつきながら釜に蓋をして、かまどに薪を放り込んだ。隣から火を移せば、後はしばらく待っているだけでよい。シャビィが気を利かせたのだろう、クコの実の壺も、元の場所に戻っている。

「でも、私は初めからそうするべきだったような気がするんです。目に映るものはまやかしだと、ずっと教えられてきたけれど、本当は、世の中を自分の目で見て、それに気づかなければ、意味がないんだって。釈尊が、そうしたように。」

 言葉の重みを確かめながら、シャビィは少しずつゆっくりと話した。大きな目に灯った陰は、地下水路から、ナルガの街角から、広々とした海から取り入れたものだろう。シャビィの目をじっと見つめてから、リシュンはゆっくりと立ちあがった。

「なんだか、もう道を見つけてしまったような顔つきをしていますよ。」

 リシュンが笑いかけると、シャビィは大まじめに言い返した。

「とんでもない。私は道を探しに行くんです。これから、やっと。」

 すすのついた手を打ち合わせ、リシュンは提案した。

「お湯が沸くまでしばらく間があります。少しくらいのんびりしても、罰は当たらないでしょう。」

 勧められるままにテーブルについてから、シャビィはそわそわしながらかまどの火を見つめていた。リシュンも付き合ってかまどを眺め、時々声をかけてみるものの、シャビィが曖昧な相槌を返すばかりで、少しも話が始まらない。リシュンが諦めてテーブルをたち、茶杯を用意しようとしたとき、やっとシャビィは口を開いた。

「リシュンさん、その、結局今まで聞けずじまいだったのですが――」

 テーブルに手をついたまま、リシュンは聞き返した。

「何でしょう?」

 シャビィはためらいがちに、小さな声で続けた。

「教えてください。リシュンさんが、プリア・クックに、それも、蔵を破りに来た訳を。」

 かまどの中で薪がひきつる音がした。燈台の火がシャビィの半身に彫り込んだ陰影は、目が痛くなるほどに鮮明で、深い。

「……寺院の、正確には、門主様の不正には、あのとき既に確信を持っていました。私は真相を知るための手がかりを探していたのです。」

 リシュンの答えに、シャビィは引き締まった顔でゆっくりと相槌を打った。

「分かりました……では、僕に出会ったときには、もう大体の事情をご存じだったんですね。」

「ええ。」

 リシュンは澄ました顔でそっけなく答えると、いきなりかまどを振り返った。小手鍋から、薄暗い湯気がたち昇っている。

「少しの間失礼して、茶杯を準備してきますね。」

 リシュンは立ち上がると戸棚から盆と茶杯を取り出し、茶杯に茶葉を入れて湯を注いだ。釜の方はまだ火の勢いが足りないようだ。リシュンは薪を足して強く扇いでから、盆を手にテーブルに戻った。

「丸幡屋を見張っていたのも、豊泉絹布で皆さんを待ち構えていたのも、確認と……」

 リシュンは茶杯をテーブルに置き、シャビィの手元に差し出した。

「恐れ入ります。」

 会釈をしたシャビィの眉が少し浮いたが、リシュンは話を進めることにした。

「仕掛けのためです。」

 燈台の陰りを受け、リシュンの姿は明るい部屋から浮き上がっている。仏像にひけをとらない穏やかな表情の下に、シャビィは複雑に入り組んだ深みを見た。

「そんなに早いうちから……やはり、それも占いで?」

 リシュンは小さく首を横に振った。

「あの立派な御堂を見れば誰でも疑問に思いますよ。以前ならともかく、今のナルガにそんな羽ぶりのよい大店はありません。薫氏の息がかかった店を除いては。」

 昨夜の会話が本当なら、寺院に薫氏が出資する筈はない。シャビィは小さく唸ってから、相槌を打った。

「それで、何かよくない商売が行われていると思ったんですね。」

 リシュンが茶杯の蓋を取って香りを確かめてみると、軽くてしなやかな湯気がたち昇り、ほっそりとした顔を優しく包み込んだ。

「少なくとも、何か見えていないところで資金が動いていました。そもそも、シャビィさん、僧侶は金銭をもらうことすら禁じられているはずです――もう出ていますね。」

 シャビィは茶杯の蓋を外して中を覗き込んだ。寺院で飲んでいる茶とは違い、若々しい緑色をしている。茶杯の中で広がった鮮やかな萌黄色の葉が口に入らないよう、シャビィは慎重に茶をすすった。さわやかな香りだが、茶葉だけはどうにも邪魔だ。

「原則として、直接必要のあるものだけですね。もらっていいのは、食べ物とか、服とか――勿論、商売はご法度です。」

 リシュンが茶杯を置く音がした。見てみると、蓋をしたまま片手で押えて呑んでいるらしい。シャビィはたどたどしい手つきで茶杯の蓋を戻し、話を続けた。

「ですから、寺院から金銭が出てくることは、普通はありません。それはリシュンさんの言う通りです。門徒に熱心な方がいらしたときだけ、新しい寺が建つんです。」

 リシュンは暫く目を閉じて余韻を楽しんでいたが、シャビィが話し終えるとゆっくりと目を開いた。

「そして今回は、誰が寄進しているかわからないまま寺が建ったというわけです。結論から述べると、結局自腹だったようですね。少し調べただけですぐに分かってしまいましたよ。」

 これを聞いて、シャビィは眉を寄せた。

「しかし――」

 言い返そうとしたシャビィを、リシュンの強い声が遮った。

「着工に携わった工匠の一人が教えてくださいました――賃金は、胡椒で支払われたとのことです。」

 そうか、胡椒だ。シャビィが声をあげた。

「見たんです。殴られる前に。床一面に黒い粒が広がって――」

 口の中で弾ける鋭い香り、冷たい床を胡椒が転がる乾いた音。蘇った情景に対して大きく開かれた目を見て、リシュンは咄嗟に分厚い肩を叩いた。

シャビィさん、ゆっくり、少しずつ、少しずつ整理しながら、思い出してください。それはとても大切なことです。さ、そのとき、他に何が見えましたか?」

 リシュンが途中で切り上げて戻ってきたのは、十分な手がかりをつかめたからだ。シャビィは絶対に何かを見ている。門主たちにとって命取りになるような何かを。そうでなければ、わざわざ閉じ込める道理がない。シャビィが眉間を押さえて記憶を手繰り寄せるのを、リシュンは手に汗握って見守った。

「確か椎茸を取りに行って……階段の、そう、地階の一番奥に、小さな部屋があったんです。そこに、クー先輩がいました。胡椒の、スゴイ、強い香りがして……クー先輩は、向こうを向いて、机の上で何かをしていました。」

 シャビィは熱い息を吐きだすと、少し冷めてきた茶を一口飲んでから、じっとテーブルを見つめた。

「クー先輩が驚いて、振り向いたんです。そうしたら、音がして胡椒が散らばって――ク―先輩は、蝋燭を握りつぶそうとしました。」

 虫だろうか。壁の上を、白い影が滑った。

「他に何か覚えていることはありますか?先輩が何をしていたか、机の上に何が置いてあったか、部屋の中で見たもの、聞いた音、何でもかまいません。」

 リシュンはいくつかきっかけを与えてみたが、シャビィは眉間にしわを寄せて唸るばかりで、なかなか核心を思い出せない。

「椎茸が……椎茸が……」

 見当はずれなうわ言と、薪のはぜる乾いた音だけが、あてどなく部屋の中をさまよっている。リシュンは仕方なくちびちびと緑茶を舐めながら待っていたが、しばらくするとしじまをひっかくか細い羽音が聞こえてきた。

 リシュンの部屋は半地下にあって夏も比較的涼しいが、毎年雨季と共にどこからともなくやってくる蚊にだけは苦戦させられる。虫に効く薬草はもちろん、ナルガでは雑草さえも手に入れるのが難しく、少なからぬ家庭で煮炊きの煙を部屋にまく方法が用いられたが、戸口の隣に窓が一つあるきりのこの部屋では頻繁にできることではない。

 リシュンはさっと部屋の中に目を走らせ、小さな異物が漂っているのを見つけると、素早く両手で叩き潰した。ひしゃげた羽虫が掌に張りついているのを確かめ、小さく溜息をついて顔を上げたリシュンを、何か思い出したのか、シャビィは何か言いたげな顔で見つめている。リシュンは目を輝かせてシャビィを見つめ返したが、シャビィは力なく嘆いただけだった。

「……何と惨いことを。」

 リシュンはうなだれたシャビィを宥めすかし、なんとか事件のことを思い出させようとしたが、結局シャビィはそれ以上細かいことを思い出せなかった。それどころか、しきりに蚊のことを気の毒がって面倒なことこの上ない。リシュンは諦めてシャビィの腹を膨らませてしまうことにした。

「何、その、蚊には申し訳ないことをしてしまいましたが、ほら、そろそろお粥があがる頃でしょう。」

 振り返ると、好い塩梅に釜が湯気を吹いている。リシュンはこれ幸いとばかりに盆を持ってテーブルから逃げ出した。蓋を開けてみると、少しとろみは足りないが、食べられないこともなさそうだ。いくらか塩をふってから手早く粥をよそい、リシュンは完璧な笑顔でテーブルに戻った。

「お待たせしました。お口に合うとよいのですが。」

 仄かな椰子の香りは、いくらかシャビィの表情を和らげた。

「いただきます……ああ、いい香りですね。これは一体?」

 リシュンは胸をなでおろし、シャビィにそっと匙を手渡した。

「椰子の実です。このあたりでは特に珍しいものでもありませんが――そちらでは、採れるものが大分違うのですか?」

 シャビィは食い入るように椀を覗き込んでいる。

「山の上と下では、大分違いますね。上るにしたがって、少しずつ生えている草木が入れ替わってゆくんです。」

 それは、それは。適当に相槌を打ち、リシュンは息を吹きかけ、匙で掬った粥を冷ました。今なら話を戻せる。

「これまでに思い出したことをまとめてみましょうか。」

 匙を口に運んでから、リシュンはシャビィが何やら祈りを捧げていたことに気付いた。禅僧の習慣が分からないせいかもしれないが、シャビィと一緒にいると調子が狂ってしまう。

「は、はい……」

 シャビィは目を白黒させ、リシュンに合わせてためらいがちに粥を口にした。

シャビィさんは、庫裡の地下にある貯蔵庫に入った。」

 リシュンは親指を折り曲げた。

「ええ。」

 シャビィは頷いた。

「そして、先輩を見た。彼は、何か作業をしていた。」

 リシュンは、人差し指を折り曲げた。

「おそらく。」

「部屋は胡椒の香りで満たされていた。ということは、部屋には胡椒が沢山あった筈です。違いますか?」

 リシュンは中指を折り曲げ、シャビィをじっと見つめた。シャビィははっとして、何度も頷いた。

「そうだ。棚に麻袋が並んでいました。あれが全部胡椒だったんだ。」

 リシュンはこっそりと溜息をついてから、続けた。

「よいでしょう、では、これは確認済みです。それから、先輩が胡椒をひっくり返した。おそらく、作業には胡椒が関係していたのでしょう。」

 シャビィは縮こまって、後頭部をさすりながらリシュンを見上げた。

「すみません、もっとしっかり見ていれば……」

 仕方のないことです。リシュンは薬指を折り曲げ、それからはっきりとした声で告げた。

「そして、最も重要なことは、彼らがあなたを監禁したことです。彼らはその部屋で、間違いなく後ろ暗いことをしています。」

 分厚い唇をきっと結んで足を組み直し、シャビィはゆっくりと鼻から息を吐き出した。

「一体どうすれば老師たちは考え直してくれるのでしょうか。私は……私には、うまく説得する自信がありません。」

 溜息混じりに嘆くシャビィに、リシュンは粥をすすめた。

シャビィさんは何も悪くありませんよ。そうして気持ちが塞ぐのは、お腹が空いているからです。さあさ、召し上がってください。お腹が膨らめば、何かよい知恵が得られるかもしれません。」

 気力を失っても、腹は空くものである。始めは鈍かった匙の動きが次第に勢いをつけてゆくのを確かめながら、リシュンもせわしなく手を動かした。人間は、年をとればとるほどに頑固になる。シャビィは説得と言ったが、あの老人に改心を求めるのがそもそも無理な話だ。シャビィの気に障らぬよう、リシュンは慎重に言葉を選んだ。

「……ただ、寺院の周りでは既に少なからぬ財が動いています。この不正は、もうジェンドラ大師のご一存では止められないところまで来ているのかもしれません。」

 シャビィは顔を上げ、音を立てて粥を呑みこんだ。広い額に、大粒の汗が群がっている。首を横に振りながら横目でシャビィの顔色を確かめ、リシュンは話を切り出した。

「かくなる上は、多少強引な手を使っても、不正を続けられないように仕向ける必要があります。そのために――」

 リシュンの重たい眼差しは、シャビィから正しい記憶を引き出した。

「そのために、老師たちの不正を暴かなくてはならないんですね。」

 寺院の権勢の源は信心である。完全に化けの皮をはがすことができれば、二人でも太刀打ちできないことはない。

「ただ、私たちが騒いだところでどうにかなる相手ではありません。不正が行われている証拠を、白日のもとに晒さない限り、誰も信じてはくれないでしょう。」

 こともなげに言い放つと、リシュンはまた粥を掬った。細い眉は、安らかに伸びきっている。

「あの地下室を皆に見てもらうことができれば、分かってもらえると思いますが……何とかして、友人に協力してもらいましょう。」

 寺院の裏側は、外に対して固く閉ざされている。開くなら、内側からだ。幸いにして、寺院の中にはシャビィの友人がいる。シャビィの声には勢いがあったが、リシュンは首を横に振った。

「それも難しいでしょう。誰が不正にかかわっているか分からない以上、内側の人間を迂闊に信用することはできません。勿論、良識のある禅師様が沢山いらっしゃるというのは分かりますが……シャビィさん、ジェンドラ大師があなたの悪い噂を流していないと考えられますか?」

 リシュンは小さく肩をすくめ、シャビィはぐったりとうなだれた。この期に及んで門主が律義に正語だけ守っていると考えるのは難しい。

「八方ふさがりか……」

 リシュンは粥を平らげると、力なくテーブルの上に身体を投げ出したシャビィを匙で小突いた。

「そこで、ジェンドラ大師には自ら尻尾を出して頂くことにします。」

 シャビィは、目を丸くした。いつの間にかかまどの火が消え、リシュンの背後に薄明かりが染みだしている。

「実は、さっきの話にはまだ続きがありましてね……」

 真黒なリシュンの影が、ふたたび静かに語り出した。

「二週間近く前になりますか。寺院の資金源を怪しんだ私は、早速寺院の周りに探りを入れました。占い師にとって、ネタは資本ですからね。」

 霊感に頼っているかのように見える占い師だが、正しく卦を読むには知識や情報を際限なく要求される。大抵の占い師が事情通である所以だ。

「余計な詮索や告げ口をされぬよう、寺院と繋がりが弱そうな職人たちから順にあたりましたが、口止めされていたのでしょうね、報酬の話になると、皆途端に口を噤んでしまいました。……そこで、街で一番自惚れの強い石工に訊ねたのです。あなたほどの達人の技には、商人たちもさぞ高い値をつけるのでしょう、と。」

 残った粥をこそぎながら、シャビィはリシュンの話に耳を傾けた。壁にくっきりと焼き付いた影は、澱みなく語り続ける。

「石工は、親切にも自慢話を始めてくれましたよ。そして、私が寺院の話を持ち出すと、亀の石像を手掛けたことを教えてくれました。やはり、報酬は弾んだそうですが、問題は支払の方法です。」

 シャビィは椀から手を放し、うっすらと笑みを浮かべたリシュンを見つめ返した。

「そこで胡椒が出てくるのですね。」

 ええ、それも――リシュンは粥の入っていた椀を軽く叩いた。

「このお椀に入りきらないくらいの。金貨なら、20は下らないでしょうね。私がそれだけ稼ぐには、どう頑張っても2年はかかります。」

 軽い上に単価の高い胡椒は、ナルガでしばしば貨幣の代わりに利用される。堂々と貨幣を使えない寺院にとっては、都合のよい抜け道というわけだ。

「後でお得意様の米問屋に聞いた話ですが、大店のお布施は大体が胡椒だそうですね。食料品なら問題ないという理屈でしょう。」

 リシュンは大げさに溜息をつくと、温くなった緑茶を一息に飲み干した。

「あまりよい気持ちのする話ではありませんが、それなら本当に問題ないのではありませんか?いや、その、隠さなくてもよいというだけですが。」

 門徒から現金代わりに胡椒をたっぷりと受け取っているというのなら、門主もわざわざ危ない橋を渡るまい。ク―とて、ただ胡椒の量や質を確かめていただけかもしれない。しれないが、シャビィにとってはそれでも十分忌々しき事態なのだろう、いかにも歯切れが悪そうな物言いに、リシュンは苦笑した。

「ですから、それだけではないのです……シャビィさん、豊先生のところで奏国の専売制に話題が及んだのを覚えていますか?」

 シャビィは一瞬天井を見つめ、それから頷いた。

「はい。胡椒が売れなくて、景気が悪いという話でしょう?」

 ヘムの言った小遣い稼ぎも、そこに端を発しているのかもしれない。

「売れなくて値が落ちたために大工は胡椒を多めに受け取ったのではないかと、私が米問屋に確認したかったのはそこです。しかし、大事なのはここから。私がそのお得意様に胡椒の値動きがないか訊いてみたところ、いいですか?胡椒が安くなったのは専売制が始まってからの二、三カ月だけで、すぐに揺り戻しがあったというのです。」

 語気を強めて語るリシュンを前に、シャビィはただ目をしばたかせただけだった。頭は悪くないのだが、この禅僧は世間に疎すぎる。

「つまり、抜けているのです。行き場を失った筈の胡椒が、どこか見えないところから。」

 リシュンは額を押さえ、指先で机を叩いた。

「……胡椒の値が下がらないように買い支えているのは、昔から奏へ香辛料を輸出していた、大帆行という海商です。」

 このこと自体は、商人たちの間でよく知られていた。勝算のないその場凌ぎをいつまで続けられるものかと、彼らは馬鹿にしながら事態を見守り、実際大きい帆行は落ちぶれて召使いやら出先やらを次々に手放したものの、これがついぞ潰れることなく今に至っている。それ以上何も起きないために人々はすっかり興味を失い、米問屋の主人もリシュンに訊かれてはじめて思い出したという。

「確かに、大帆行が買い続けることだけでも胡椒の値を上げることはできます。在庫を大量に抱えている大帆行が胡椒の値を上げたがるのも、無理はありません。しかしながら、売る当てのない胡椒を延々と買い続けることは不可能です。たとえどんなに蓄えがあっても、いつか必ず尽きる日がやってきます。」

 大帆行の名が挙がるたび、シャビィの眉が小さく動くのを、リシュンは見逃さなかった。

シャビィさん、聞き覚えがあるのでしょう?大帆行という名前に。」

 心なしか、リシュンの口元が僅かに緩んだ。

「いや、それがなかなか思い出せなくて、困っているところです。」

 シャビィは、また禿頭をさすった。シャビィが背を丸める度に、この頭は実に小気味よく陰を放つ。小さく笑いながら、リシュンは大帆行の正体を明かした。

「私がたまたまシャビィさんに助けてもらったとき、赤い商館の前で見張りをさせられていたでしょう?あれが大帆行です。共に洋氏の権勢を支えてきた、カタリム山スピアン・タキオ寺院の相方ですよ。」

 プリア・クック寺院の地下室に隠されていた胡椒。大帆行が買い込、どこかに流れ出している胡椒。ようやく繋がった二つの胡椒は、シャビィから一切の言葉を奪った。大きく開いた口の上下で、分厚い唇がわなわなと震えている。

「大帆行は白帯(ビャクタイ)の商人ですが、早くに洋氏と結びつき、娘を何人も輿入れさせているようなところです。洋氏の後押しで成長したジャーナ宗との間にも、それなりの関係があると考えるべきでしょう。」

 シャビィにとっては、涼しい顔で説明するリシュンに、一言返すのがやっとだった。

「そうか、同じなんだ――」

 ナルガ全体が困窮している今、余っているとはいえあれだけの胡椒が布施だけで集まるとは考え難い。シャビィが見たのは、大帆行の掻き集めた胡椒だったのだ。

「ええ、私もそう考えています。考えていますが、大帆行が集めた胡椒を寺院がばら撒いているだけでは、何の利も生まれません。ですから――抜け穴があります。大帆行によって寺院に集められた胡椒が、ナルガから出ていく穴が。そして、大帆行がさらなる胡椒を買い付けるための金貨が入ってくる穴が。シャビィさんが見たという、地下室の中は。つまり……寺院は胡椒を売っているのですよ。それもおそらく、取引そのものが禁止されている奏国で。」

 リシュンの考えを聞いて、シャビィは両手で頭を抱えた。

「まさか、そんなことまで……」

 うろたえるシャビィをリシュンは慰めた。

シャビィさんが気に病むことはありません。シャビィさんはもう寺院の人間ではないのですから。あなたは自分で、正しい道をえらんだのですよ。」

 リシュンは二人分の食器を片づけ出した。

「寺院は朝廷からも疑われにくく、また手を出しにくい組織です。税関を破るにも、胡椒を売りさばくにも、これに勝る隠れ蓑はありません。門徒に手伝わせて鼠講(ねずみこう)を仕掛ければ、出所を胡麻化すのも容易でしょう。」

 リシュンが食器を重ねるのを、シャビィはぼんやりと眺めている。

「そして何より、薫氏が関税や専売制によって締めつけているおかげで奏国内の胡椒の値は以前の何倍にも膨れ上がっています。密輸がうまくいけば、それはよい商売になるでしょう。それこそ、贅を尽くした寺院が建てられるくらいの。」

 食器を盆にのせてリシュンが立ち上がると、シャビィも気づいて声をかけた。

「ご、ごちそうさまでした。私も手伝います。」

 立ち上がる際にテーブルで膝を打ち、小さく呻いたシャビィに頼んで、リシュンは釜に水を張らせた。

「そう、その水がこぼれないよう、気をつけてついてきて下さい。」

 肩で扉を開くと、リシュンは洗い場の脇に屈みこみ、シャビィはゆっくりと釜をリシュンの前に下ろした。

「これだけで足りますか?」

 釜の中には、椀をいっぱい洗えるだけの水しか入っていない。

「なるべく汚れていないものから順に洗って、水を使い回します……そう嫌そうな顔をしないでください。水自体が貴重なのです。」

 リシュンはふやけた茶葉を捨て、茶杯を釜の水に漬けこんだ。

「それにしても、リシュンさん、お話を聞いていると何となく納得してしまうのですが、実際のところは地下室を見て見ないことには分からないのではありませんか?」

 シャビィも真似をして茶杯を洗った。滑らかな地肌の鳴き声は、どこかあどけない。

「確かめるにはそうするしかありませんが、寺院が出資者を明らかにしない以上、何かを売って資金を作ったと考えるのが自然です。」

 茶杯をさっと水にくぐらせてから、リシュンは水を切った。

「それに、ジェンドラ大師と話したときには手ごたえがありましたよ。私が寺院の影響力が云々と口にしたとき、大師だけが私に合わせたでしょう?」

 リシュンは布巾で茶杯を拭き、盆の上に戻した。

「あのときはいい気がしませんでしたが……そうか、あのときに何かを確かめたんですね?」

 茶杯をリシュンに手渡して、シャビィは匙を洗いだした。

「ええ、少なくとも、寺院が薫氏に目を付けられるような、それも私たちに言えないことをしているということですから。それに、彼らが胡椒を大量に隠していること、丸幡屋から誰かが胡椒を買い付けていることも確かです。」

 リシュンは手早く二つ目の茶杯を拭くと、シャビィから匙を取り上げた。

「後は税関破りの手が分かれば……胡椒を何に隠して運んでいるかが分かれば、鎌をかけることもできるのですが、シャビィさん、何か心当たりはありませんか?怪しまれずに寺院から門徒に配れるようなものです。」

 シャビィは椀を洗う手を止めて考えた。

「……そうですね、寺院で在家の人に配るのは、お札とか、くじとか、お護りとか……」

 お護り。匙を拭き終えたリシュンが、顔を上げた。

「その中ならお護りでしょうね。少々小さいのは気になりますが――中身を確認するのも気が引ける上、お礼参りの時に貨幣を詰めて返してもらうこともできます。」

 青い空に匙をかざし、リシュンは白い影をじっと見つめた。

「お護りに賭けさせてもらいますよ。私たちの命運を。」

 皿洗いを再開したとき、リシュンには穏やかな表情が戻っていたが、匙を見上げたリシュンの横顔にひらめいた鋭い知性は、椀を洗っている間中、シャビィの頭に焼きついて離れなかった。

椀を拭き終えると、リシュンは釜の内側をこそいで、排水口に水を捨てた。

「夜も既に半分終わってしまいました。余計なことはせず、今日はもう寝るとしましょう。」

 食器を元の場所に戻すと、リシュンは扉の掛金を下ろした。錆びついて今にも崩れそうな代物だが、風で扉が開くのを防ぐことくらいはできる。燈台からランプに火を取り、かまどの上へ。燈台の火を消してしまうと、俄かに部屋が明るくなった。

「申し訳ありませんが、適当にその辺に転がって寝てください。」

 リシュンは髪を下ろしてそのままベッドに横たわってしまった。取り残されたシャビィ一人が、ランプの陰を受けて波打っている。

シャビィさん、まさか、私にベッドを譲れと言うつもりではないでしょうね?」

 リシュンが寝がえりを打つと、藤のベッドは弱々しく抗議した。

「いえ、その、そういうわけではなくてですね……」

 言わずもがな、酒と女は修行の最大の妨げである。リシュンは口ごもったシャビィを訝しげに見つめていたが、シャビィの戸惑いに気づくと含みのある笑いを浮かべた。

「仕方ありませんね。隣を半分開けてあげましょう。」

 心にもない申し出にも、シャビィは耳まで真っ赤になってしまった。

「結構です。わ、私は表で夜を明かすので、どうぞお構いなく!」

 シャビィは戸口を目指したが、窓から折悪しくまばらな雨音が入り込んできた。念のために覗いてみると、外はいつの間にか雨で墨色に染まっている。御仏は、かくも立て続けに試練ばかりを与え給うものか。諦めて引き返したシャビィを、リシュンは笑って迎え入れた。

「これも修行と思って、よく耐えることです。」

 シャビィは押し黙って疑いの目をリシュンに向けたまま、壁際に陣取り、横になったのであった。


丙へ続く

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