ふたり回し

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ハック&スラッシュに説法はいらない

今回はややこしい話が多めです。

「儀式はいらない」より続く


 お遊戯が終わると、教祖さまのお話が始まりました。これでしばらくは何もせずに済みそうです。

「みなさんこんばんは。お忙しい中今夜もお集まり頂き、誠にありがとうございました。書によって選ばれ、共にこの豊かな知恵を守り受け継いでゆく仲間がこんなにも大勢いて下さること、心強く思います」

 マイク越しの声が小さく尾を引く中、教祖さまはゆっくりと会場を見渡しました。

「今夜は昨日の続き、ナビクフの作品世界における言葉の役割についてお話しいたします。この、ナビクフという稀有な作家の戯曲において、言葉に対するある種の敬虔さ、発話行為をそれ自体呪術として描く姿勢が貫かれていることは、既にお話した通りです」

 あのお爺さんは、一体どこの誰の話をしているのでしょうか。こっそり横目でワノンちゃんを見てみましたが、ワノンちゃんも眉を寄せ、目をしばたかせています。

「ナビクフ、いえ、当時の人々は皆、チュアルーが『再発見』する500年も前に言葉そのものが持っている力、それを借りて、私たちが『全き叙述』を、ひいては私たちを取り巻く表象の世界を書き換えるところの力を、知識ではなく生まれながらの知恵によって知っていたのです」

 また新しい言葉が出てきました。公用言語のはずなのにちっとも中身の分からない、毒電波の塊です。早々にギブアップした私やワノンちゃんの隣でフィンカちゃんは船をこぎ、ルイエちゃんただ一人が教祖さまの話にじっと耳を傾けています。ルイエちゃんが撮影に徹しているのか、それとも話を本当に聞いているのか、私には見当もつきません。

「私たちの生きる世界の背後には、常にこの『全き叙述』、神が世界を記述するための命令が横たわっているということを忘れてはなりません。あらゆる名前はそこから意識体験が生まれるところのものであり、それらから神とその似姿としての精神が成り立つところのものであり、それらを通じて私たちの精神が結びつき、より大きな総体、高次の存在へといたるところのものなのです」

 端で起こった小さなざわめきが会場に染みわたり、信者さんの熱が冷たい空気を揺さぶりました。隣の人なんて、フードの下ですすり泣きながら、手の甲で涙を拭っています。

「もう皆さんもお分かりでしょう。この、書物というもの! 言葉が心と心のを結び付けるなら、今を生きる私たちだけでなく、千年前を生きた書き手の、千年後を生きるであろう読み手の心を結び付ける、この書物というものは、時の壁を貫き根を張る意識の大樹。この秘められた図書館こそ、古今東西に生きる精神が集約された、まさ人類史の意識そのものなのです!」

 なんだかよく分からないけど、本当にとてつもない分からなさでした! 赤いすり鉢の中に激しい拍手が降り注ぎ、体がひりひりしてきます。いつの間にか私たちも拍手に加わっていることに気づいて、私はこっそり聞いてみました。

「ワノンちゃん、今の話、分かりましたか?」

 ワノンちゃんは小さく首を振り、それから壇上の教祖を見つめました。

「いや、分からへん。そやけど、毎晩通ーてるうちに分かるような気がするんえ……」

 やっぱりワノンちゃんにもこの話の凄さが伝わっていました。私たちは今夜、世界の秘密の扉を叩いたのです。

「これで今日の講和を締めくくりたいと思います。それでは皆さん、最期に字並べの行を執り行いたいと思います。上の席から順に、一列に並んで講壇まで来てください」

 教祖さまの呼びかけに応えて信者たちは一斉に立ち上がり、汽笛に似た声を出しました。字並べの行とは、一体何をすればよいのでしょうか。同じ階の信者たちは左側の階段からぞろぞろと講壇へ下っていきます。

「まずいね、一人ずつチェックされるよ」

 ルイエちゃんの言った通り、最初の信者さんは教祖さまにお辞儀をすると、机の上で何かをいじって、反対側の階段を上って行きました。ここで間違えたら、それこそごまかしが利きません。

「ユニス、お前の前、空いてるぜ」

 私がよそ見をしている間に、行列が進んでいます。私は慌てて前をつめ、試練に向かって歩き出しました。上から見下ろしても机の上はよく見えず、階段を下り始めると、前の人の頭に隠れてもう教祖さえ見えません。私は結局何のヒントもないまま、ぶっつけ本番で文字並べの行をする羽目になってしまいました。

「それでは、また明日」

 前の人にお別れを言うと、教祖さまは私に向き直りました。ここまできたら、もう気合で乗り切るしかありません。私は階段を上り、教祖さまに一礼して机の上を見つめました。机の上には大きなトレイがあり、その上にハンコのようなものが裏向いて並んでいます。この続きを、何とかして埋めなくてはいけません。

 頭の中で文字を裏向けながら、私はハンコの列を辿りました。「……書ゆ、常にわんわん」。何のことか、さっぱりです。どこか読み間違えてしまったかもしれません。私は何度も読み直しましたが、これが「常にわんわん」以外の何物だというのでしょう。

 私が目を回していると、教祖が目の前で咳払いをしました。手間取りすぎて怪しまれたかもしれません。このままでは4人とも皆殺しにされてしまいます。この際適当でも何か埋めてしまえと、私はハンコの入った箱に手を伸ばし、無難に「は」を選んでトレイに乗せました。

「常にわんわんは」

 教祖さまに突っ込む暇を与えてはいけません。私は教祖さまにお礼を言って、そそくさと退散しようとしました。

「待ちたまえ」

 走って逃げればよいものを、静かな教祖さまの呼びかけに私は立ちすくんでしまいました。冷え切った足首から体中に震えが広がり、足腰がバラバラに崩れてしまいそうです。この暗い中、反対側から間違いを見つけるなんて、このお年寄りは一体何でできているでしょう。

「君はなぜ、『は』を選んだのかね?」

 尋問が始まりました。信者さんたちの目が、一斉に突き付けられ、言い訳が舞い込む隙間もありません。どこにでも合いそうだからと答えるわけにもいかなくて、私は苦し紛れに和やかな話題を選びました。

「えっと、その、なんとなく……じゃなくって、可愛いですよね、ワンちゃん」

 これでだめなら、本当にお終いです。わんわん。教祖さまは私の答えに、伸び放題の眉毛をぐっと曲げ、私を睨み付けました。

「犬は主に仕える。犬が主を知っているがゆえに、主は犬を選ぶと、君はそう言いたいのだね」 

 よかった。すごんで見せた割には、教祖さまも犬好きみたいです。最期の逃げ道を踏み外さないように、私はひたすら犬の話を続けました。

「わ、わ、わ、私も昔犬を飼ってて、餌がないから戦争の時に逃がしちゃったんですけど、戦争が終わったら家さ戻ってきて……うち、おっとさんがいねぐなってがら女子供と年寄ばっかりだったんです。ピョドロが守っくれたから、ヤクザささらわれずに済んだんです」

 教祖さまは私を睨み付けたまま、2、3度強く頷きました。ちゃんとごまかしきれたでしょうか。クマに会った時のように、私は教祖さまから目をそらさないようにしてゆっくりと後ずさりました。

「なんということだ! 皆さん、このお嬢さんを見逃してはなりません。例えどんなに小さくとも、例えどんなに齢少なくとも」

 ついに教祖さまは目を向いて怒鳴りました。分かってくれたと思ったのに、これではあんまりです。信者さんたちの間に広がったどよめきに震えながら、私たちは小さく身構えました。


「文法はいらない」へ続く