ふたり回し

小説投稿サイトとは別に連絡や報告、画像の管理などを行います

水蛇の塔(一八六四年五月十一日)

そして恐怖の急展開。


 発掘八日目。本日はアランの機嫌が悪い。半端な時間に叩き起こされ寝不足のアランからは始終生欠伸と不平が漏れる。朝食の折私は夜中の出来事を学生達に伝へたが、信ずる處か仏蘭西語を操る地元の子供などゐる筈が無い、大方家族恋しさに都合の良い夢でも見たのでせうと一笑に付される始末。一方彼らの興味を引いたのは山の上の祠で在つた。其の祠が我々の探してゐる蛇神の祠で在れば斯くも楽な話はない、いや、抑々(そもそも)山が無いではないかと進まぬ議論が長引く中、ボリスが小声で呟いた。先生、確か寺院の上には大きな宝塔が在りましたね、と。

 成程子供が山と呼んだは小高い伽藍の事やも知れぬ。我々は満場一致で宝塔の再調査に繰り出し、当初は嵌め殺し考えられてゐた宝塔の扉を調べ始めた。扉の石版は周囲と異なり建築後に塞がれた公算が大きく宝塔の大きさも五米四方に達し内部が祠堂で在つても不思議は無い。鑿を隙間に捻じ込み石版の撤去を試みた處、石版は予想外に軽く作業は比較的容易に終了し、祠堂と思しき空間を発見。私はボリスを称賛し一番乗りの名誉を授け、彼はランタンを手に祠堂内部を覗き込んだ。

 併し乍ら、ボリスの第一声は大発見の歓声に非ず。女子供の如き悲鳴に苦笑し後に続くと、其処には大量の人骨が散乱してゐた。ランタンの光が届く範囲は床から天井に至るまで夥しい量の血痕に覆われ、部屋の中心に設置された台座からは神像が失われてゐる。間違い無い、此れこそが伝承に在つた祠で在る。石室とは異なり祠堂の死者に副葬品の類は無く、装身具も数点のみ。付け加える可きは、孰れの人骨も四肢と頭部が分断されてゐる事で在る。儀式に於いて生贄を獣に喰はせたか、或は人間の手に依り解体したか。孰れにせよ、石室の遺骸が埋葬された時期からは儀式の様相、意味合いが大きく変化乃至断絶した物と見られる。

 半日に渡る照応作業の結果、六体のほゞ完全な遺骸と八体分の部分的な骨資料を得た。孰れも石室の遺骸と比較して損耗が激しく、頭骨を欠いた遺骸は歯の観察が不能な為年齢の把握すら困難で在る。確認の取れた以外の内六体が十代前半、三体が十歳未満、頭骨を欠いたの五体は体格の大小成るが混在し、中には顕かに幼児と思われるものが二体。全体には新しい遺骸程年若い傾向が見られるも、最も新しいと思しき遺骸は十代後半で在つた。

 装身具を身に着けてゐた遺骸が最も古い三体で在る事から、我々は此れ等の生贄はが石室の遺骸と連続してゐるものゝ、儀式は次第に簡略化されたと云う結論を得た。気候の変化等の理由に因り地域が衰退し新たな寺院を建設する経済的基盤が失われ、同時に河川の氾濫が頻繁と成つたとも考えられる。一度川岸で地質調査を行ひ、村祭が近く行われると云ふから、村の由来は其の際にでも長老に訊ねるが良からう。