ふたり回し

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護送

ちょっと駆け引きっぽい感じです。


「警察って、何も身に覚えがないんですけど」

 目を白黒させるアレクに、刑事は顰め面のままで事情を教えてくれた。

「あなたに嫌疑がかかっているわけではありません。先日、ボロチャ通りでテロが起きたことは知っていますね? 私はあの事件の参考人としてあなたの身柄を確保するよう命じられているのです」

 刑事の肩越しに、白いペンキが剥がれかけたコンクリートの壁の上を蜘蛛が上ってゆくのが見えた。アレク達がテロリストを目撃したのは確かだが、目撃者を拘束するというのも随分と無理のある話だ。背中にシャツが張り付くのを感じて、アレクはのらくらと刑事を躱した。

「ああ、あれのことね。確かに見ましたけど、わざわざ署まで行くこともないでしょう? ここでは何ですから、ラウンジでお茶の一杯でも」

 アレクは刑事を誘い引き返そうとしたが、刑事は肩をつかんでアレクを引き止めた。決して薄くはないアレクの筋肉に食い込むのは、市民に何かを伝えるためではない、犯人を捉えるための力だ。

「既にあなたは反逆者によって狙われている可能性があります。これはあなたを『保護する』ための措置です」

 刑事が放つ語気の重みにアレクはあっさりと肩を下ろし、ひきつった笑顔で青いTシャツをつまんだ。

「いや、でも、その……着替えても構いませんか? この格好じゃ、ちょっと」

 急いでください。刑事はドアの前から離れ、アレクがジャージのポケットから鍵を取り出すのを見守った。随分と甘い対応だが、それもそのはず、アレク如きがプロを相手に逃げ切れるはずもない。ミツバチのキーホルダーはアレクの手元で翻りながら蛍光灯の青ざめた光を受けて輝き、湿った音と共に部屋の鍵が開いた。

 窓から差し込む淡い光に、味気のないフラットが浮かび上がっている。やはり刑事は、ユレシュ何某の手先なのだろうか。それとも本当にアレクの目撃談を必要としているのか。いずれにせよ、ここに戻ってこれるのは暫く先になるだろう。部屋を見渡していると不意に出窓に座ったテディベアと目が合い、アレクは焼けついた溜め息を吐き出した。今はとにかく、ひたすらシラを切るしかない。アレクは灯りをつけて藍染のシャツを羽織り、ジャージを七分丈のチノパンに履き替えると、旅行の時に使った携帯用の洗面用具と数日分の着替えをまとめた。

「ほとぼりが冷めるまでどこかにかくまって頂くことになるんですよね?」

 アレクが旅行鞄を担いで出てきても、刑事は特に何も咎めなかった。

「ええ。日用品ならこちらで用意できますが、持参していただくことに問題はありません」

 外に車を停めてあります。刑事の後について、アレクは素直に階段を下り出した。アレクが疑われている可能性は高いが、ピョートルにした話だけでは、アレクが城に通じているとまでは決めつけまい。アレクがボロを出さなければ、まだまだ生き延びるチャンスは残っているのだ。灯りの落ちたロビーを横切りながら、アレクはポケットの中で鍵を熱くなるまで握りしめた。

 刑事の車は、門のすぐ傍に停めてあった。のっぺりとした銀色の日本車で、けばけばしい芳香剤の匂いが充満している。二人が押し黙ったまま窓の外の夜だけが流れ続け、しばらくして刑事が藪から棒に訊ねた。

「あなたも難儀な人だ。病院で私が見掛けた後、既に二度も入院しているとは。医師たちと妙に親しくなってしまったのでは? 大学病院の医師というのは、どんな人々でしたか」

 アレクの病状どころか、エッシャーの城とも全く関係がない。この話で一体、何が探り出せるというのか。アレクは答えを求めて夜の街に目を走らせながら、薄っぺらな返事を寄越した。

「……変わった質問ですね」

 刑事はほとんど間を置かず、他愛ない世間話を続けた。

「気になってくるものですよ。刑事をやっているとね。どんな人間が何を考えているのか、。何をしたがるのか。逆に、そういう事を気にする男だから刑事の仕事を宛がわれた、と考えることもできますが」

 夜も更けてきたせいか、月明かりに沈んだ通りは随分と空いている。アレクは言葉を選びながら、用心深く助け舟に乗り込んだ。

「俺の場合は、機械でしたね。何がおかしいのか、どこがイカれてるのか。刑事さん、俺たちは意外と似てるのかもしれませんよ」

 暗闇の中で正面を向いたまま、しかし、刑事が小さく笑う声が聞こえた。

「修理するという意味では、寧ろ医者の方が近いのでは? 医師達は怒るかもしれませんが」

 この男も、丸きり鉄の兵隊という訳ではないらしい。自分の怪我に切先が触れないよう、アレクは無難に冗談を捌いた。

「いや、流石にそれは失礼ですよ」

  赤信号に引っ掛かり、車はゆっくりと止まった。刑事は目だけを動かし、しきりにバックミラーを覗いているようだ。

「それで、居ましたか? おかしな、もとい、面白い先生は」

 話を戻してきたということは、やはり意図があるのだろうか。アレクは揚げ足を取られないよう、当たり障りのない言葉を選んで返した。

「いえ、俺の当った先生は二人とも普通の人でしたよ。太ってて、白髪交じりの気さくなおじさんって感じ」

 刑事はアレクの話には触れず、質問を続けた。

「もう一人の医師には、どんな印象を持ちましたか」

 返事がそっけない割に、聴くほうだけはやたらとしつこい。アレクは顔をしかめながら、少しばかり投げやりに答えた。

「背が高くて、なんというか、神父っぽい人でした。浮世離れしてるというか」

 信号の色が変わり、再び車が動き出す。

「それ以外にはどんな医師がいましたか?」

 アレクは目を瞑り軽く頭を捻ったもの、出てくるのはうなり声ばかりだ。

「あんまり覚えてませんね。すれ違っただけだし。工事の時案内してくれた人とも、世間話しかしなかったような……」

 分厚い暗闇の向こうで、刑事は俄かに語気を強めた。

「そんなはずはない。入院していれば、嫌でも医師たちの噂が耳に入ってくるはずです」

 これではまるで言いがかりだ。アレクの首筋を

「刑事さんじゃあるまいし、一々そんなの覚えたりしませんって」

 そうか、そんなものか。刑事はあっさりと引き下がり、その後二人が警察署に着くまで、車内には冷たい静けさが波打ち続けた。


 車を降りた後、アレクは取調室に連れて行かれた。オフィスの奥にしまいこまれたいわくありげなこの部屋は、ただ一つの窓もなく6面が白いタイルで覆われている。天井に埋め込まれた8セット16本の蛍光灯からはおびただしい量の光が降り注ぎ、入ったばかりのアレクにはとても目を開けていられない。

「テロの発生した時間に、あなたはどこで何をしていましたか」

 車の中とは打って変わって、月並みな質問だ。刑事もやはり眩しいのか、もともと鋭い目をさらに細めている。

「その日最後の工事が終わって、車で事務所に帰るところでした。場所はボロチャ通り、ほら、川に一番近い辺りですよ。病院のある筋の……一つ? 二つ手前だったかな」

 タイルの弾いた光は部屋の中の陰という陰を洗い流し、アレクの足は床から引き離されてゆ。やがて壁と壁の境目が溶けだし、何もない光の海の中、アレクは一人取り残されてしまった。

「テロに使われた戦闘車両を目撃しませんでしたか。その車両が襲撃に使用した経路を特定しなければなりません」

 軍用バイクのことだ。テロリストの重バイクは、突然姿を現した。あの日、アレク達の目の前で。

「見ました。俺たちの前を走っていたトラックから転がり出てきて――」

 光の向こうを見つめながらアレクが呟くと、光は俄かにアレクのうわ言を遮った。

「見た? 間違いありませんね」

 光は念を押し、それからトラックの種類を訊ねた。

「食衛課の……緑の奴です。走ってる途中にいきなりコンテナが開いて、中から大きなバイクがバックで飛び出してきました。ぶつかるかと思ったけど、こう、すいっと綺麗に着地して、そのまま脇道に消えたんです」

 アレクは事件当時の様子を騙りながら、左手を宙に滑らせた。

「どこに隠していたかと思ったら、車両の中だったのか……ナンバーも教えて頂けると、車両を特定できる可能性があります」

 光は低い声でうなり、それから新たに問いを重ねた。

「いえ、流石にそこまでは。目の前の事故のことで一杯一杯でした」

 アレクの答えに何も返さず、光はアレクの周りを静かに渦巻いている。アレクの証言は調査を進めはしたが、十分ではなかったようだ。

「ところで本題だが……」

 ややあって、光は再び語り出した。さっきまでとはまるで違う。暗く、重く、鋭さをはらんだ声。気付くとそこには、顰め面の刑事が座っていた。

「お前も気づいている通り、目撃者の保護などというのは建前だ。公安からの要請でな。何でもいいからアレクという修理工の身柄を押さえておけと」

 公安という言葉はの響きには、どこか腹に沈み込むものがある。ピョートルがやけに簡単に返してくれたのには、やはり訳があったようだ。

「所轄の人間には知る必要などないということなんだろう。舐めた話じゃないか? フリスビーを咥えて戻ってくるだけの簡単なおつかいだ」

 刑事は机に肘をつき、大きく身を乗り出した。

「このまま御用聞きにされたのでは癪だからな。知りたいのだ。俺がお前を捕まえたことに、一体何の意味があるのか」

 顔が近くにあるせいで、刑事の顔が細かいところまで見てとれる。薄い唇、真っ直ぐ尖った鼻、研ぎ澄まされた切れ長の目、今はもう動物園にしかいない、ツンドラオオカミと同じ青灰色の瞳。

「教えたら、助けてくれるってわけかい」

 アレクは首をすくませ、のけ反りながら刑事に聞き返した。あまり模範的な刑事とは言えないが、党の中に危険人物がいると聞いたらこの男は食いついてくるだろう。一瞬の睨み合いの後、刑事は何かを口にしようとしたが、鉄の扉をたたく音がそれを上書きしてしまった。

「公安4課の者だ。被疑者の引き渡して貰おう」