「ら抜き表現」肯定派は、少なくない。
私も、「見られる」のほうが変だと思う。
なぜ「ら抜き表現」が間違っていると認識されるかというと、
おそらく「ら」があるはずなのに抜けているからだ。
しつけがキチンとなってないから、「ら」が飛んでしまう、
いまだにそんな風に考えている人もいるかもしれない。
私は、思う。
この名前こそが、「ら抜き表現」」が間違いであるという、
最大の根拠ではないか?
上一、下一(カ変)の可能動詞だと言えば、
そのまま認められてしまうのではないか?
そもそも、現在使われている「れる」、「られる」は、
昔の「る」「らる」が、下二から下一になったものだが、
奈良時代には、「ゆ」、「らゆ」というものも、
同じ働きをしていたそうである。
この「ゆ」を現代風に下一にすれば、「える」ということになる。
この「ゆ」、消えてしまった後にも、動詞の中で生き続けている。
「おもひたまふるとおり」の「たまふる」は、今の「たまへる」。
他にも、たのめる、かづけるなど、
受け身、可能、尊敬、自発のうち、
中世にはおもに受け身の意味で使われている。
件の可能動詞は、昭和以降に作られたもので、
これも「える」が末尾についた形になる。
(ただし、自動詞や、反対語のある同士が多い)
そして、上一や下一で可能動詞を作ってできたのが、
「ら抜きことば」である。
見れる、着れる、居れるなど、
「られる-ら」ではなく、「る+ゆ」と思えば、
平安以来の日本語の伝統を受け継いだ、
正しい言葉づかいとは考えられないだろうか?
「見る」など、「見ゆ」という自発か受け身か分らない先輩の手前、
ここは「見れる」で手を打つほかない。
反対語もなく、受け身の非常に重要な知覚動詞でもある。
「見られる」一本で通すのが、もともと無茶な話だったのだ。