ふたり回し

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ある程度は不自由に

思い通りにできてしまうと、なくなってしまう楽しみもあります。


そんな楽しみを取り戻すためにあるのが、いわゆる「ネタデッキ」ではないのかというのが今日のお話です。


不自由な間は、自由にあこがれるものですが、自由になったとたん、逆に選べる選択肢は減ってしまいます。

ゲームでも、パーツやスキルが飽和してくると、自由度が上がっているはずなのに工夫のしようがなくなってくることがありますよね。

こうなってしまうのは、正解とまでいかなくても、それに近いものが存在するからです。

今のカードゲーム業界にもそれに近いものがあるのではないかと、私は思っています。


もちろん、正解のないゲームを作ることができれば、それが「正解」であるということには何の異論もありません。

しかし、それはやすやすと達成されるものではないのです。

それをごまかすための、パーツ集め、スキル集めがあって、カスタマイズやコンフィングが成立しています。

カードゲームにおいても、カードの不足から、工夫のし甲斐が、あるいは逆説的な自由が生まれていたことでしょう。

ただし、対戦相手がいるゲームにおいては、手持ちの駒を必死にそろえなくてはいけません。

パーツはコンプリートされ、メソッドは確立され、完全な自由という死が勢いよく迫ってきます。

それどころか、攻略wikiからブログにいたるまで大量の情報が行き交っているわけですから、パーツ集めが全てになってしまうこともあります。


こうした飽和状態を回避するのは、新しいタイトルの出現だったりするのですが、これがカードゲームではなかなかできません。

TVゲームなら、たかただ6000円でリセットをかけることができます。

しかし、別のカードゲームを始めるには、あるいは、いきなりスタンダード落ちが起こったなら、被害はその程度では済まないでしょう。

飽和を防ぐためには収集を難しくする他ありませんから、飽和するか、身を削るかの二択になってしまいます。

しかも、プレイヤーが競技志向で遊ぶ限りは、身の削りあいはエスカレートするわけで、結局飽和を免れることはできません。

人間の作った限界が存在するゲームは、技術中心の限界のないゲームと違い、切磋琢磨するほどにつまらなくなってしまうようです。



こうなると、プレイヤーの間でも「工夫のしよう」を回復させようとする動きが生まれます。

いわゆる、「ネタデッキ」ですね。

「楽しむため」とか、「独創性がある」とか、はたまた「勝負を捨てている」というのが一般的なネタデッキの定義です。

が、今日は「親ら制限を設けて不自由を取り戻したデッキ」という定義を使わせてください。

「好きなカードを中心に組む」「全部のカードが一枚積み」「単色で仕上げる」「大がかりなコンボを狙う」と、ネタデッキの「お題」は十人十色。

しかし、その根幹にあるのは、「お題」に即して、あるいは「お題」にしばりつけられながらデッキを作るという、共通した倒錯的な楽しみです。

「お題」に従うことで、思い通りのデッキづくりができなくなり、自由に接近するための工夫が「可能に」なるということです。


同時に、デザイナーズや販売元の側からも、「不自由」が提供されることがあります。

デザイナーズデッキのお話はすでにしましたが、それとは別に、「限定構築戦」というものもありますね。

構築済みのデッキを使って組み替えられる箇所制限したり、あるいはカードプールを制限する、トッキューというイベントも行われています。

スタンダード落ちは対応するのが大変ですが、こうしたイベントはおおむね喜ばれているようですね。


始めから存在する完璧な自由は、本当の自由ではないのかもしれません。

むしろ、不自由な人間が、自由になろうとさまざまな工夫を凝らして前進する過程そのものが、自由と呼ばれるに値するのではないでしょうか。

(「倒錯的な楽しみ」はナシかも・・・「自身に多くを要求する・・・」いや、違うか・・・)


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