書きためていた分がいくらかあるので、ここから先は更新が少し頻繁に?なるかもしれない。
リシュンを追いかけるわけにもいかず、シャビィは重たい足取りで黄色い商館の前に戻った。門主や兄弟子達の姿は、朱く塗られた扉の前にも、扉の前の石段の上にもない。有りがたいことに、挨拶が長引いているらしい。アーチ状に石をくみ上げた基礎にゆくりと近づき、汗ばんだ背中を冷たい石組に預けると、全身に少しずつ住んだ血がいきわたり、淀んだ表情を押し流してくれた。シャビィは娘の消えていった通りを一瞬見やってから、目を閉じて息を吐き出し、それから再び大通りの見張りを始めた。通りには様々な肌の色の商人や水夫が溢れ、色とりどりの綺羅に身を包んだ妓達が漂っていた。
しばらくして、シャビィは背にした壁からかすかな音が伝わるのを感じた。音を立てずにかがみこみ、眩しさをこらえて細めた眼でアーチの奥を覗き込んだが、強い光の中に見えたのはうっすらとした石柱の輪郭ばかりで動くものの気配はどこにもない。方手を地面に付いた姿勢のまま、床下に潜るべきか、それとも潜らざるべきか迷っていると、商館の扉が開く音が聞こえた。
「待たせたな……どうした、シャビィ。何かいるのか?」
兄弟子のヘムがしまった声で問いかけてきた。シャビィは振りかえり、
「いえ、物音がしたので床下を探ってみましたが、誰もいないようです。先輩方の足音を聞いて勘違いしたのでしょう。」
と、青味の残るはげ頭をさすって見せた。
「なんだ、お前もそそっかしい奴だな。」
ヘムは苦笑して肩をすくめると、振り返って門主に安全を伝え、門主ともう一人の兄弟子を連れて階段をゆっくりと下ってきた。
「シャビィよ、表の様子はどうじゃった。」
門主はシャビィを見上げて、白髭の下で口をもごもごと動かした。平凡な問いかけ一つで弟子を身構えさせてしまうのは、仙人じみた風体ではなく不意に襲いかかってくる禅問答のためである。長年修行を積んだ兄弟子でも太刀打ちできないというから、この老師は恐ろしい。
「ご覧の通り賑やかな通りですから小さな諍いは絶えませんが、その程度のことでは目や耳が驚くことはあっても砲やそれにしたがう思考を驚かせることはありません。」
苦し紛れの答えに門主が顔をしかめた時、シャビィの心臓に兄弟子の溜息が突き刺さった。
「いや、曲者がおらなんだか聞きたかっただけなのじゃが……まあ、シャビィよ、焼け石の上を渡るつもりで歩きなさい。もっとも、後はプリア・クック寺院に戻るだけじゃが。」
よい、よいと背中を叩いてシャビィを促し、門主は三人の弟子と共に坂を登り始めた。新しく建立された寺院は、ナルガ島の中心にある丘の上だ。隣り合った市庁舎とほぼ同じ敷地があるというから、商人たちの必死さも窺える。今まで香辛料の輸出先だった奏国が専売制を導入したせいで、ナルガに限らず近海の諸国はどこも景気が冷え込んでいるのだ。
門主に合わせてのんびり歩いていても、十数える間もなく全身から汗が噴き出してきた。汐を吸ったねっとりとした熱気は、山の上の暑さとはまるで別物である。帰路も半ばにさしかかったころ、門主と兄弟子たちの間の空気が一変した。世間話をしていたクーは懐からおもむろに手鏡を取り出し、鏡の中を巧みにまさぐった。
「あらやだ、こめかみの毛がもう生えてきちゃってるわ。朝剃ったきりだったから。」
必要以上に声が大きいのは、鏡に何かが映ったからだ。振り向きそうになったシャビィにヘムが小声で釘をさす。
「振り返るな。気付いたのを気取られたくない。」
ヘムは少しかがんで門主と何やら相談し、しきりに頷き合ったあとで提案した。
「我々が人気のない通りに出るのを待っているのでしょう。迎えを呼ばせるのが得策かと存じます。」
「うむ。このまま少し行ったところに、以前から懇意にしておる商会の支部がある。一まずそこに逃げ込むとしよう。」
門主は淡々と答え、髭をいじりながら指示を出した。
「使いは……クーよ、任せられるかの。」
承りました、と頷いて雑踏の中に消えてゆく兄弟子の姿を見送ると、シャビィは残った二人に謝った。
「申し訳ありません。あの時気づいていれば先手を打てたものを。」
ヘムは鼻先で笑って、
「なるほど、耳目をふさいでいれば心が驚くこともあるまい。」
とからかったが、門主はこれを嗜めた。
「シャビィ、気にするでないぞ。何事も大事には至っておらん。さればこそ、ヘムよ、軽口を叩く余裕も生まれるというわけじゃ。」
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