しまった、ルイエの正体がバレそうになるシーン入れるの忘れた……
フィンカちゃんが飛び跳ねていたのは、余裕を見せつけるためではなく、ニホチマさんをおちょくるためでもなければ、オジサンたちを喜ばせるためでもありませんでした。
イェリックさんはとうとう私たちに気を遣うことも忘れてフィンカちゃんのデカチチを必死に応援していますが、フィンカちゃんはピンクの石鹸をよけるので精一杯なのです。
「いけ! そこだ! 飛び出せ! そんな軟弱な紐など引きちぎってしまえ!」
私たちはなけなしの優しさでイェリックさんの声援を聞き流しながら、ゴム膜の上を流れる石鹸の出所を探しました。
これもレースの演出なのでしょうか。
「あの石鹸、なんやフィンカばっかり狙ってへん?」
ワノンちゃんの言う通り、ニホチマさんの足元には石鹸が一つも流れてきません。
フィンカちゃんの走っているプール側にだけ、いくつか固まって石鹸が流れてきているみたいです。
ニホチマさんに肩入れする意地悪なスタッフは、一体どこの誰でしょう。
私は歯ぎしりしながら、ルームランナーの先を探しました。
「おーっと、ここで13番、ぺトラ選手が転倒! 無情の海に投げ込まれる! まだまだ余裕があるように見えましたが、一瞬の油断が命取りになりました!」
後ろの方でまた誰かが犠牲になったみたいですが、それよりも実況が気になります。
油断?
「ワノンちゃん、司会のおじさんは石鹸のことを知らないんでしょうか?」
私の質問に答える代りに、ワノンちゃんは一人の観客を指さして叫びました。
「おった! あのハゲや! あれは……なんか見覚えのある……」
遅れてハゲの人を見つけたその時、私の目はその人がルームランナーに石鹸を放り込む瞬間をバッチリ捉えてしまいました。
周りから頭一つ抜けた上背、特盛三人前の筋肉、これ見よがしなブーメランパンツ。
間違いありません。
ニホチマさんの連れていたボディービルダーです。
「ニホチマさんのお付きの人です。 運営のお手伝いもしてたんですね」
あるいは、ミスコンで優勝した人にスパのスタッフをレンタルリースしているのかもしれません。
口元を押さえて考え込でいたところだったのに、ワノンちゃんが私のお団子をつかんで思いっきり湯船に沈めました。
「アホか! スコベしてるに決まってるやん! 腐れボディコンがハゲにゆーて、他の選手を邪魔させてるんや!」
ワノンちゃんが手を放し、私はへりにつかまってひたすら息をしました。
鼻の奥に水が入って、まだズキズキしています。
「フィンカ君がニホチマの後ろについたようだ。さすがに戦い慣れているな」
オペラグラスを下したイェリックさんの顔には、二つの輪っかがくっきりと残っています。
私は横目でイェリックさんをにらんでからもう一度フィンカちゃんに目を向けました。
これではニホチマさん追い抜くことはできません。
「あれは……、ボディコンにも石鹸がいってる」
眉間にしわが寄るくらい目を凝らしながら、ワノンちゃんがつぶやきました。
ニホチマさんはぎりぎりまで引き寄せて石鹸をかわすつもりです。
ニホチマさんの動きを読み取り、フィンカちゃんもなんとかかわしましたが、形成はますます悪くなってしまいました。
「ここでフィンカ選手がニホチマ選手を抜きにかかるも……ニホチマ選手がこれをブロック! マラソンはトラック競技ではないので2度目の進路変更はペナルティを取られません!」
横に動いたフィンカちゃんをニホチマさんはしつこくブロックし続け、フィンカちゃんはニホチマさんに合わせてジャンプするしかありません。
次第に顔つきの曇ってきたフィンカちゃんに、後ろからもう一人の選手も迫ってきます。
ウェーブのかかったオレンジ色の髪をなびかせた、際どい水着を着た女の人。
一次審査でトップバッターだった、ティウルという人です。
「ワノンちゃん、フィンカちゃんが抜かされちゃいます!」
ティウルさんはドロドロに溶けたまつ毛とシャドウをぬぐい、さらにスピードアップしました。
一次の時はたれ目に見えていましたが、お化粧が落ちてしまうと意外に目じりが高くて、きつそうな顔をしています。
「ん? 今おもーたら、なんや、見たことあるような……」
けれども今のフィンカちゃんには、もうティウルさんに構っている余裕はありません。
私たちが首をかしげている間にも、石鹸は絶え間なく襲い掛かり、今またニホチマさんが大きくジャンプしてみせました。
「え?」
ニホチマさんの足元には、石鹸は流れてきていません。
ニホチマさんの右足は石鹸のぎりぎり手前に着地し、そのまま石鹸をまたぎました。
フェイントです。
遅れてジャンプしたフィンカちゃんにこの石鹸をよけるすべはなく、見事に石鹸を踏み、ゴム膜に顔から突っ込んでしまいました。
「ぶべっ!」
転んだ拍子に特盛のクッションが銀色の紐を引きちぎり、フィンカちゃんの身体をバウンドさせました。
イェリックさんが余計なことを言ってしまったばっかりに、フィンカちゃんは絶体絶命です。
「おーっと、フィンカ選手の水着が破れてしまったぞ! ここで脱落かーっ!」
アクシデントは、それだけでは止まりません。
フィンカちゃんを振り返ろうとしたその時、手下の投げた石鹸に足を滑らせ、ニホチマさんまで尻もちをついてしまいました。
ファンデーションが溶け出し、小じわだらけの素肌をのぞかせた現代の怪物は手足をばたつかせながらルームランナーに運ばれてゆきます。
薄汚い見栄のために、悪いことをしたバチが当たったのです。
「続いてニホチマ選手も転倒! 今年のサウナマラソンは悪魔にでも取りつかれているのか!」
襲い掛かる大歓声の中フィンカちゃんはなんとか起き上がろうとしましたが、床に着いた手が紐を踏んでしまい、首からぶら下がっていた銀色の布切れはするりとゴム膜の上に落ちてしまいました。
もはやフィンカちゃんが上半身に纏っているのは、ミストサウナの薄い霧だけです。
会場を包むおっぱいコールに混じって、小さな悲鳴が聞こえました。
血みどろの戦いの中でも今まで一度も聞いたことのなかった、フィンカちゃんの悲鳴。
私とワノンちゃん耳を塞いで、絶叫しました。
「フィンカちゃん! イェリックさん、ゴンドラを下してください!」
ゴンドラがゆっくりと下がり出す間にも、転んだ二人はベルトコンベアに運ばれ、興奮した観客の中に吐き出されようとしています。
しかもフィンカちゃんは、上半身が裸のまま。
「生き残ったのはティウル選手、初出場にして、ミス――あれ?」
手をついて立ち止まると、ティウルさんは突然歯を食いしばってルームランナーを逆走し始めました。
ティウルさんの目前では、フィンカちゃんが片手で胸を隠し、よろめきながらもなんとか立ち上がっています。
それなのに、それなのに、運命のなんと残酷なことでしょう。
そこはもうルームランナーの端っこです。
「あかん!」
見かねたワノンちゃんが手すりにかけたパラオをひっつかみ、まっすぐに飛び下りました。
私も一足遅れで続きます。
「フィンカ選手、ついにコースアウト!」
人々の雄叫びに、プールの水面が波打ち、細かいしぶきが舞い上がったその時、ティウルさんがゴム膜を蹴り、空中に飛び出しました。
「フィンカ!」
ダイブした私たちの目の前で、ティウルさんはフィンカちゃんの片手をつかみ、反対の手をステージの屋根に伸ばしました。
弧を描いて舞い上がり、屋根のはりにぶら下がっているのは、髪を蛍光色に染め、とんでもなく破廉恥な格好をした、私たちのリーダーです。
「ティウル選手、間一髪でフィンカ選手を救出! 一人落ちたニホチマ選手にピラニアが群らがります!」
私たちがピンチになったとき、ルイエちゃんは必ず駆けつけ、旗色を塗り替えてしまいます。
それが私たちの戦える、一番の理由なのです。
そんなことを言ったら、ルイエちゃんに怒られそうですが。
フィンカちゃんの無事にほっと胸をなで下ろし、私たちは水柱を上げながらプールの真ん中に着水しました。