ふたり回し

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表象

若干描写不足気味というか、短く切れてしまったかもしれない。


「うぉう! いい食べっぷりじゃないの、アレク君。もう一枚、いっとく? いっちゃう?」

 マルゲリータにがっつくアレクを見て、レフはお代わりを注文した。昼間からのバカ騒ぎに、店員も困り顔だ。周りどころか、二人のことさえお構いなしでピッツァを頬張る、アレク。いつの間にか、手がオリーブオイルで染まっている。

「いらっしゃいませー」

 表の方で声がしたが、アレクには聞こえていない。3枚目を口に押し込み、4枚目に手を伸ばしてから、アレクはやっと口が塞がっていることに気付いた。ひとまずは、ワインだ。アレクは白ワインで強引に流し込み、空になったグラスには白い指紋がべったりと残った。

「こちらの席へどうぞ」

 ノブの回る、透明な音がした。テラス席に、お客が入ったらしい。小さく息をつき、ふと顔を上げたアレクの前に、見慣れた若者たちの姿があった。

「みんな――」

 髪の短いお調子者、髪の短い童顔の女、皮肉っぽいギリシャ彫刻、背の高い黒髪の女。アレクがずっと見つめていた、当たり前の日々の姿。懐かしい光景に釣り上げられたアレクを、しかし、レフは席に引きずり下ろした。

「止めとけ。意味ねーよ」

 1月の夕闇よりも、レフの声は暗く冷たい。当たり前だ。アレクが足取りをつかまれたとき、窮するのは自分だけではない。アレクは背中を丸め、テーブルの上で拳を握った。開け放たれた窓の外、白い日差しの下に、アレクの本当の居場所がある。アレクはずっとあそこにいた。アレクの傍には、いつも彼らがいたのだ。

「そんなこと分かってる」

 押し殺した声の下から、にじみ出る熱の重み。硬くなる二人をよそにアグラーヤは目を細め、袖から眠たげにステージを眺めている。最後の一切れはアグラーヤの手にわたり、噛みちぎられたところからオイルが滴り小皿を汚した。

「いいや、分かってない。そういう意味じゃないんだ」

 レフがグラスを弄ぶと、薄い光のスポークがテーブルクロスの上で回った。

「……暫く黙って、あいつらの話を聞いてみろ」

 言われるよりも早く、窓からユーゴ達の話し声が流れ込んできた。軽口を叩くユーゴ、淡々と毒舌を返すパルミ、何かと後ろ向きなミシェル、大げさに驚き、自慢し、文句を吐き……、笑っている。ノンナが、いつものように。聞きなれたお喋りはアレクの背骨にしみ込み、中から体をじっくりと温めた。

「今年は片手落ちだったからな……可愛そうな俺のために、神様がもう一回夏をオマケしてくんねぇかなぁ」

 アレクは振り向かないよう、目だけで表を窺った。

「んなことばっか言ってると、来年の夏を取り上げられちまうぜ?」

 ミーシャが冷やかすと、レフは偽物の太陽に手をかざし、最後の力を振り絞ってかすれた声で救いを求めた。

「主よ……どうか、どうか休暇を与えたまえ……このままでは、俺は……」

 色とりどりの笑い声に混じって、フォークが皿にぶつかる、眩しい音が聞こえてくる。何も変わっていない。あんなことが起こる前と、何も変わらない、いつも通りのじゃれ合いだ。

「あ~、私も夏休み、もう一回やり直したいよー……旅行も途中で終わっちゃうしさー」

 そもそも変わるはずがなかった。本当はあの日から、一週間も経っていないのだ。アレクは単に、悪夢を見ていただけだった。保安局だの、陰謀だの、秘密基地だの、そんなものはどれも絵空事に過ぎない。現実というものは、馬鹿馬鹿しくて、のどかで、遠慮がなく、そして、ノンナの隣には、アレクが座っている。全てが、全てが元通りだ。

「二人とも、子供じゃないんだから……夏休みは来年もあるんだから、それまでせいぜいいい子にしてたら?」

 元通り。窓に映った自分の影を見つけて、アレクの指先が引きつった。そんな筈がない。いなくなったアレクのことを、ノンナ達は確かに心配してくれていた。だからアレクは一日も早く、ユレシュを見つけなければならないのだ。ノンナを安心させるために。

 空元気にはとても見えないユーゴ達のバカ騒ぎは、窓の向うで少しずつ歪みの中に沈んでゆく。なぜ皆は何事もなかったようにふるまっているのだろう。テラスの上で、皆は何を演じているのだろう。暗く萎んだアレクの瞳に、なぜかアグラーヤはうっとりと見惚れた。

「つか、何で帰ってきたんだっけ?」

 首を傾げるユーゴに、パルミは溜め息交じりで返した。

「何でって、バカ。あんたそんなことも忘れちゃったわけ? そんなの……」

 アレクが入院したからに決まっている。パルミが少し詰まっただけで、お喋りはすっかり干上がってしまった。台詞を忘れた役者たちは、パルミによるべのない眼差しを注いでいる。

「あれ? やだ。おかしい――」

 分かりきったはずの答えが、いくら待っても出てこない。道理でいつもと変わらないはずだ。彼らには、本当に何も起こらなかったのだから。地下室での事故が、いつの間にかガス中毒になっていたように。

「お待たせいたしました。こちらマルゲリータ(大)です。まだチーズが熱いので、火傷なさいませんようお気を付けください」

 皿の底がテーブルを叩く音が、ウェイトレスの注意に応えた。アグラーヤが煩わし気に一切れかじって見せたきり、アレクもレフも、手を付ける気配がない。

「ユーゴが……腹を壊したんじゃなかったっけ? ……確か」

 暫くして、ミーシャが無理のある憶測を絞り出した。デタラメを聞かされ、アレクは開いた口が塞がらない。このあやふやな呼び水は、しかし、勢いよく笑い声を汲み上げた。

「そうそう、あれは大変だった! 顔も真っ青になっちゃって」

 ノンナに指をさされて、なんとユーゴは腹を壊したことを認めてしまった。

「そういや、そうだったな。いや、あの時はホント死ぬかと思ったし」

 最早、あの舞台にアレクの役はない。いや、ノンナが生まれたその日から、恐らくは一度も、アレクが登場したことなどなかったのだ。アレクは項垂れ、両手で頭を覆った。作りものの日差しの下では、まだ歪なおしゃべりが続いている。縮こまったアレクの肩を、レフは軽く抱き寄せた。

「そろそろ帰ろうぜ。本物が待ってる、世界に」

 アレクの耳にはレフの囁きすら届かない。ただ、潮騒がお思い出を飲み込み、沖合へと運んでゆく、とりとめのない音だけが響いていた。