ふたり回し

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拒絶ー3

むしろ復調してきたと考えるべき?

 それならこの刑事は、例の男に何があると思っているのか。敢えて言い返さず、サリエルは笑顔を整えた。
「俄かに信じられないのは、無理からぬことでしょう。ユレシュの発見は、機械論的なそれまでの心理学会に革命をもたらすものでした」
 それは、レーニンの革命に勝るとも劣らぬほどの。当然学会からの反発も激しかったが、Э本人を知る者にとって、それは過去の迷信に過ぎなかった。固定観念にとらわれているせいか、論駁の間も刑事は眉一つ動かさない。
「違う、そこじゃありませんよ」
 サリエルの興奮ぶりで、少なくとも嘘でないことは分かるという。刑事にとっての問題は、もっと前、Эの登場で仮説が生まれたという点だ。
「逆でしょう? 仮説を検証するために子供達を集めたから、Эという子が見つかった……違いますか?」
 オハとの関係のみならず、バクーの改宗センターにもある程度の当たりをつけて来たらしい。刑事の矢継ぎ早な指摘を、サリエルはにこやかに労った。
「良い質問です。この分野では、特異な症例一つで研究が大きく前進した例が珍しくありません。多くの研究者が二人目、三人目のЭを発見することを目標にしていると思いますよ」
 無論オハで行われていた人体実験は禁止されて久しく、サリエルはその以前からも非人道的なロボトミーに対抗するため非侵出的な手法を開拓している。例の患者が協力してくれれば、違法な実験を撲滅することとて夢ではない。先回りのかけつぎが間に合い、急所を突けなくなったお陰か、刑事はしかめ面でサリエルの努力を称え、協力を約束した。
「大変貴重なお話、本当にありがとうございました」
 追跡が進み次第、追ってご連絡し致します。帽子を目深に被り直し、刑事は部屋を後にした。エレベーターホールに向かい、冷たい足音が遠ざかってゆく。すっかり聞こえなくなるまで待ってから、サリエルは恐る恐る古いカルテのフォルダを開いた。テルミン、七月十七日。紹介用に送られてきた、アレクのカルテだ。乾いた音と共に現れた用紙の右上、余りにも細やかな顔写真が目に入った瞬間、心臓が縮み上がるのが分かった。
「俺? 俺がなんでここにいるんだ」
 二重の体が耳鳴りに映りこみ、錐揉み回転の末に投げだされたのは、冷たいコンクリートの上だった。眩暈がこめかみを打ち、水平線が吐き気を泳いでいる。掌は砂を噛むばかりで、一向に立ち上がることが出来ない。アレクは大の字になって天井を仰ぎ、蛍光灯の囀りに目を細めた。
 小口の賭けだ。大した期待も出来ないが、負けたところで痛くはない。となれば、全ての出目が揃ったときこそ、却って悩みの種になるだろう。肩で息をしながら酔いが凪ぐのを待ち、アレクは手摺りを支えに立ち上がった。
 アレク自身にも見当がつかない廃村の在処を、あの刑事は本当に探し当てるだろうか。万一全ての守りをかいくぐって来たところで、既にアレクは密約の中身を知っている。結局のところ、研究に近道を求めるのが間違いなのだ。