第三話
next水鏡の彼岸 - ふたり回し
before陽炎の夜 - ふたり回し
赤みがかった夜空に昇ると、火の手の上がる街が見えた。洛澄本部は、早くも主戦場になり、入り乱れた敵と味方が、あちこちで破羅輪呪を撃ち合っている。花火の続きが演じられる中、風音は、把華の姿を探した。
『風音、早く旦那様と合流しないと』
唯祈が追いついてきた。
『分かっている。だが・・・』
《風音、果奈君、こっちだ》
狭まった視界の中に、把華の姿が飛び込んできた。真紅の翼が、右前方から、大きく弧を描いて上がってくる。
『父上、被害状況は?後続の友軍はまだですか』
たたみかける風音に、鍵悟は噛んで含めるように伝えた。
『まずは落ち着きなさい・・・住民の避難に一小隊あてがったが、まだ戦況の確認はできていない。こちらは片付きつつある。北端の墓地に向かうぞ』
『了解』
三匹が向きを変えた、そのときだった。上空から風切音が、突き刺さるようにダイブしてきた。散開するが早いか、把華は仰向けのままロールせず、『|円喇《マーラー》』で反撃する。身をよじって白熱した戦輪を潜った怪鳥と、把華の軌道が絡み合う。
『父上!』
亜邦をバンクさせて追いかけようとする風音を、鍵悟ははねつけた。
『先に行け。この敵を片付けてからそちらに向かう』
『父上に来ていただかなくては、』
『風音!』
呼びとめたのは、果奈だった。広げた翼で身体を釣り上げ、亜邦は唯祈の隣に引き返す。
『揃いも揃って、過保護にも程があるぞ』
『違うよ。私たちだけでも、戦況を調べることはできるもの。後で報告できるように、きちんと見ておけばいいの》
風音が答えるのには、少しばかり間があった。少しずつ、思い出そうとしていた。
『まあ、いずれにせよ逆らうわけにもいかない、か』
目の前には、果たすべき役目がある。忘れかけていた、なんとも簡単なことだ。二人は、町はずれの墓地を目指す。目立たないように高度を下げ、富良樹の外側に出る。大回りでゆけば、発見されずに済むはずだ。
『やっぱり、戦うつもり?』
期待どおり、市街より東には、敵影はなかった。目を凝らすと、赤く染まった空に、ちらほらと影が見える程度だ。
『当たり前だ。何のために訓練してきたと思っている』
前線から距離があいて、いつもの大口が戻ってきた。しっかりと風をつかんで少しずつ左に力を加えていく。
『それはそうだけど……他にも何か仕事があるかもしれないし……』
果奈も戸惑っていることを知って、風音は得意げに説明した。
『……実戦経験のあるものなど、半分もいない。ここしばらくは戦争も起きていないからな』
『……ビハインドはないっていうのね』
西寄りの風が、炎上する市街から、焦げ付いた熱気を運んでくる。やや左向きに姿勢を固めると、亜邦は勢いよく風の上を滑り始めた。
『それが証拠に……あいつだって闘っていたじゃないか』
自分にできないはずがない。戦火をにらんだ亜邦の瞳に、ひらひらと舞い散る3つの影が映り込む。居虎だ。敵ともつれるままに、ずるずると北に移動していた。
『ねえ、風音。あれ、だんだん近づいてない?』
影が大きくなるに従って、芳しくない状況が見えてきた。居虎は上から押さえつけられて、逃げ回っている。
『病み上がり!こちらへ誘導できるか』
少し間があって、幾起からの応答があった。
『よりにもよってお前なんかに……くそっ、分かりましたよ』
二匹の姿を見つけるが早いか、居虎はぐんぐんと迫ってきた。同期の中に、通灯を使った居虎に追いつける者はいない。目標も、次第に距離を離される。音で居虎を確認しつつ、小さく斜め上に旋回。阿那は、滑り降りるようにして目前の勝利に飛びかかった。直交する軌道の上の、一秒先の目標、一秒先の目標に、1発、2発。型通り放たれた『椏殻』は、硝子の怪鳥に吸い込まれていった。着弾と同時に、光の欠片が弾け飛ぶ。舞い散るともしびを潜り抜け、風音は初めて兵になった。
『いきなり貸しができてしまったようだな。玄谷』
ゆるやかな弧を描いて、二人に合流するやいなや、風音は幾起に食ってかかった。
『大人気ないぞ……チクショウ』
『素直でよろしい。おまけに一つ連絡だ。「各自北の墓地に向かい、現地で合流」』
一同は、少し左へ進路を変える。街を蝕む炎が遠ざかり、快い夜の風が熱をぬぐっていった。
『……了解』
幾起が渋々従おうとしたとき、果奈が近づく影を見つけた。
『風音、今の爆発で見つかったみたい。後方に6、1,5公理』
静かな夕闇の中で、遠くの炎が揺れていた、競技場から引いてきたのか、増援の一部か。こちらの動きの変化に気付くと、ゆらゆらと立ち昇った虹の翼は、尾を引きながら加速を始めた。
『ふん、やはり助けるべきではかったか』
『誰が助けてくれなんて言ったよ』
『誘導には従ったくせに』
聞き慣れた喧嘩を果奈が抑えた。
『……多いね、大丈夫?』
雑音と入れ替わりに、張りつめた冷たさが浮かび上がる。
『散開して市街に逃げ込む。撒いてから目的地で合流』
通灯を全開にして、左に折れる。遅れて、唯祈と居虎もブレイクした。
『クッ、……しょうがねえ』
流石の幾起にも、3対6で戦うだけの元気はなかった。
高度を下げて、北の大通りに侵入する。追手を目の端に捉え、脇道へ。狭い路地なら、飛び道具も使いづらく、数の利も生かせない。民家を盾にするのはためらわれたが、逃げきることができるなら、被害も少なくて済むはずだ。夜に沈んだ碁盤の目を、記憶を頼りに縫っていく。阿那の巨体が通り過ぎると、路傍の看板が木の葉のように舞い上がった。窓の灯りが、滝より早く流れてゆく。
大通りに出た時、相手がそろそろ引き離されてきただろうと、風音は後方を確認した。視界の限られた夜間、熟知していなければ、市内を飛ぶことなどできないはずだ――安易な楽観は、鋭い影に打ち砕かれた。
二羽の怪鳥は、まったく引き離されていなかった。それどころか、距離を縮めてきている。予想外の戦況に、歯車が狂い出す。わが目を疑った一瞬が、風音にとって最も大きなミスだった。突き当りだ。風音は完全に旋回する機会を失った。迫る民家と、背後の敵。目の前が、広がる壁面でいっぱいになる。
しかし、戦慄に視界が覆われたその時、かすかに差し込む一筋の光が見えた。阿那を無理やりロールさせ、無我夢中で体をねじ込む。風音の眼には、もはやそれ以外何も映っていなかった。阿那の腹が壁面にかすり、焼けるような痛みが走る。はてしなく遠い出口が滑りこんだとき、目の前で光が弾けた。開けた視界に、北の広場が飛び込んでくる。学生時代にも、何度か通ったことのある裏道だった。
ほっとしたのも束の間、鋭い音が、左右から近付いてきた。唯祈と居虎だ。まだ敵に追われているらしい。行き場を失った三匹は、同じ通りになだれ込む。一瞬接触しそうになり、ひやりとした。
『見事に追い込まれたな。どうなってるんだ、全く』
『速さは大して変わらないはずなのに!』
焦った幾起が居虎をバンクさせたため、亜邦と唯祈の軌道が乱れる。阿那の腹が壁にかすって、白い煙が尾を引いた。角を曲がって、敵がついてくる。全部で6羽。ぴたりと陣形を崩さない。
『どこかで反撃しないと……どこか広い』
突然の思いつきに、思い切り加速をかけると、二匹との差が広がった。
『こっちだ。広場に戻るぞ』
不意をつくには、視界を抑えろ。北の広場の西口も、T字路になっていた。まとまって出てきたところを、一度に仕留めるほかない。
亜邦を先頭に、三匹は全速力でT字路をぬけた。垂直にバンクさせた翼が、身体の重みにきしむ。広場の入り口、街灯の真上を通り過ぎた。稼いだ時間を信じて、亜邦の頭を持ち上げ、仰向けになるまで反転させる。唯祈と居虎が通り過ぎたその時、速度が殺されて無防備になった亜邦の眼前、6羽の怪鳥が角を曲がってきた。
亜邦の口にふくまれた炎が、無数の矢になって敵に降り注ぐ。夜の広場は、灼けた鉄の色に染まる。風音の賭けは成功だった。手加減なしの『崇辣』が、逃げ遅れた追手達を八つ裂きにした。落下する亜邦の頭上を、輝く剥片が通り過ぎるのを見て、風音は胸をなでおろす。
燃えかすが石畳に当たって、広場に戻った闇の中に、乾いた音が響き渡る。通灯を使って勢いを殺し、静かに着地すると、風音は背後を確認した。射程の短い『|崇辣《スーロ》』を使ったことが功を奏したようで、民家に傷は見当たらない。頭の後ろに残った軽い痺れの中で、緩やかになっていく鼓動を感じた。
『助かった……よく思いついたね』
唯祈と居虎が戻ってきていた。靄のかかった頭の中で、置き忘れたものを思い出せず、果奈への答えも見つからず、伸ばした手は空を切るばかりだ。
『いや、大したことはない。それに……』
次第に鮮明さを取り戻す意識の中で、目的地を思い出す。
『急がなければ。ずいぶんと時間を取られてしまった』
そもそも、見つかったこと自体が失敗なのだ。ぼんやりしている暇はない。
『うん、墓地は……もう、すぐそこだから』
亜邦の爪が、石材のひやりとした感触をつかみ、大きな体を押し出した。波を捕まえるように、調子を取って羽ばたく。唯祈も続いて飛び立ったが、居虎だけが、ぼんやりとした闇の中に立ちつくしていた。
『玄谷、何してる。さっさとしろ』
風音の言葉に従うも、しぶしぶといった様子で、動きに締まりがない。
『わざとじゃないだろうな。いい加減にしろ!』
抑えきれずに噴き出した言葉に、幾起は意外な返事をした。
『不知火、俺達――俺達』
南の方でまた一つ火の手が上がった。夜空に塗り固めた黒煙の上に、踊る炎が赤い影を落とす。
『俺達、なんであんなに距離をかせげたんだ』
風音の背後に立ち昇った黒煙が、幾起には見えていた。
『密集隊形を組んでいたからだ。考えなくても分かることだろう!』
通りの突き当りに、墓地が見えた。把華達の姿はない。
『馬鹿言え、それだけであんなに差が出るもんか』
墓地は斜面の上にあり、足場までの距離感がつかみにくい。速度を落として、慎重に近づく。
『黙れ。気が散る』
赤土に足を伸ばすが、焦りがタイミングを狂わせた。勢いあまって、そのまま2,3歩音頭を踏む。続けて、唯祈と居虎が降りてきた。
『どうなってる?』
振り返って街を望むと、次第に状況が呑み込めてきた。洛澄本部と陀求社を中心に、激しい戦闘が続いている。洛澄本部のある東側は、方々で火の手が上がって虫食い状態になっていた。通りが一本一本確認できるほどだ。
『……予想以上にひどいな』
『うん、本部は盛り返してるけど、陀求社の方は押されてる。いくらか回せればいいんだけど』
風音は、何気なく通ってきた道筋を眺めた。炎に浮かび上がる二つの区画とは対照的に、切り取られたように暗く沈んでいる。風音は、何を思ったか、唐突に切り出した。
『玄谷、お前、どの道を通ってきた』
『のんきなもんだな……お前と別れてからは、靴屋のある角で曲がって、それから広場で左折して……』
風音よりも細い道を選び、複雑な道を辿っている。間違いない。
『それでも連中は追いついてきた。そうだな』
『……悪かったな。でもあの速さじゃ――』
風音は、得意げに幾起を遮った。
『玄谷、なぜ私が市街に逃げ込んだのか、分かるか』
『そりゃ、俺達の方が地理に明るいからだろう』
『実は、もう一つ有利な点があった、いや、あると思っていた――速さだ』
風音は、居虎を追う目標の姿を見ていた。同じ速さならば、引き離せる自信があった。
『それが証拠に、あの時は距離をあけることができた』
幾起にはすぐには答えが出てこなかった。口に出すのを躊躇っているのだろう。事態はより深刻なのだ。
『幾起、風音。何だか、街の上に靄がかかってない?ほら、あそこ』
一人で街を観察していた果奈が、声を上げた。腰を折られて、果奈の指の先を見るが、それらしきものは見当たらない。
『上昇気流ができているはずだ。靄がたまるわけがない。何かの見間違いだろう』
居虎が亜邦に向き直る。幾起にも、風音と同じ結論が出たらしい。
『来た!』
また果奈だ。何度邪魔をすれば気が済むのか。言い返そうと振り返った視線の先に、把華の影が浮かび上がる。逞しい翼で、荒れた風を掴み、それと分かる勢いで近づいてきた。
『全員揃っているな。分かったことは』
最初に口を開いたのは、果奈だった。
『敵は徐々に洛澄本部から手を引いて、陀求社の方に傾けています』
鍵悟が軽く頷き、果奈に話しかけようとしたとき、
『支部局長、もう一つ、気になる点があります』
幾起の裾を引っ張っていた果奈は、鍵悟の鷹揚な答えに目を丸くした。
『ふむ。何かな?』
重たい眼差しに射抜かれて、流石の幾起も、こわばった顔つきになる。
『自分が、目標を撒くために、市街に入って――』
『玄谷。話す順番が逆だ。こちらの動きが把握されているかもしれない、と言いたいのだろう?』
風音に先をこされても、幾起は何も言わなかった。
『複雑な経路を辿っていた我々に、速さで劣る相手がついてこられたのは、最短経路を通ったから。すなわち、市中の様子と、 我々の動きを知っていたからではないか、と考えているのです。無論、確証はありませんが』
一瞬の沈黙の後、鍵悟が唸った。
『指揮系統が存在するのか、鼻が利くのか……後者だろうな』
『ええ、どの個体も動きが単純ですからね。組織だった動きができるようには見えません』
ゆっくりと把華が立ち上がる。次の動きが決まったようだ。
亜邦と居虎も立ち上がろうとしたとき、声が上がった。果奈だ。
『ちょっと待って……下さい』
飛び立つ機会を逸して、鍵悟も気が立ったのか、
『なんだね』
と、短く聞き返した。
『果奈。自体は緊急を要する。ぐずぐずしてはいられないんだ』
すげなく黙らせようとする風音をいさめたのは、しかし、鍵悟だった。
『風音、黙りなさい・・・果奈君、続けてくれたまえ』
唯祈が一瞬、亜邦の瞳を覗き込んだ。果奈はおずおずと話し始める。
『……はい。ここで偵察を始めてからしばらくして気が付いたのですが――ときどき街の上空に靄のようなものが見えるんです』
『ふむ。確かに気になるな。果奈君、君はどう思う?』
『それが、気のせいかもしれませんが・・・すっと眺めているうちに、靄がかかる度、敵の配置が変わっているような気がするんです。ですから――』
『何者かがそうやって指示を出している、そうだな』
『はい』
皆が戦場を振り返ったその時、煙に濁った夜空の上に、鮮やかな虹が舞った。靄と呼ぶには鋭すぎる光が、一瞬だけ昼間の町並みを蘇らせる。そこ知れない冷たさに、心臓が縮みあがった。
『動いた!』
洛澄本部で戦っていた敵部隊が、一斉に飛び立った。後ずさる足音を、重なり合った怪音が呑み込む。
『調べてみる価値はあるかもしれんな。風音、行くぞ。果奈君と玄谷君は、陀求社に回ってくれ』
軽く助走をつけた把華は、ふわりと夜風に飛び乗ると、ぐんぐんと上昇していった。震える足で赤土を踏みしめ、大きな背中を追いかける。小さくなってゆく唯祈と居虎の羽音を確かめながら、目の前に広がる暗闇を睨んだ。
『あの辺りでしょうか?』
虹の中心とおぼしき場所から、射程ギリギリの距離をとる。
『藪蛇かもしれんが……つついてみるか』
続けざまの『円喇』が、夜空に散らばってゆく。二人は戦輪の行く末を、固唾をのんで見守った。投げかけられた炎の輪は、次々深みにまどろんでいった。ただ一つ、目の覚める当たりを除いて。
『居た!』
夜に弾けた小さな火花が、くすぶる空を燃え上がらせた。着弾点から咲いた光が、すくんだ街を切り刻む。散開した亜邦と把華は、かみそりの上をなぞって、激しく踊る虹を縫った。反撃を試みるも、流れ弾の恐れから、まったく手が出せなかった。街に張り付くように低空に浮いた相手は、着地でもしなければ狙えない。
『蛇にしては不格好だが……距離をとるぞ、風音』
バンクした把華が、夜風の上を滑り下りる。
『了解!』
虹の鞭撃を回避しながら、亜邦も把華の後に続いた。遠のくに従って、攻撃は直線的になり、そして止んだ。小さくなった敵影を振り返り、
『何なんだ、あれは……』
呟く風音の視線の先で、鈍い光を放っているのは、怪鳥からもかけ離れた、奇妙さの塊だった。二つの白い鮑に挟まれるように、透明な細い胴が弧を描き、白い殻に並んだ穴の奥に、虹がうごめいている。
『分からんが……果奈君の推理は当たったな』
いつの間にか、把華が傍までやって来ていた。
『射程が短いのは救いでしたね……こちらからの攻撃も困難ですが』
『密着した状態で叩くしかないか……よし、私が囮になろう』
西寄りの血風にのって、爆発音が渡ってきた。陀求社の方だ。墜ちたのは、敵か味方か――。頭をよぎった心配を、虹の刃が薙ぎ払う。赤い空に並んだ影が、二つに分かれて宙をさまよう。亜邦が相手に向き直ったとき、把華はすでに大きく距離を詰めていた。
逃げ場を失った瞳が、目の前の敵に吸い込まれていく。通灯を全開にした阿那の両翼が、夜空に白い掻き傷を残した。
把華を追って奔る虹の間に、一瞬の間隙が生じた。翼端を捻って亜邦をロールさせながら、間合いの中に滑り込む。
『もらった!』
真珠のような外郭に、突き立てようと伸ばした爪に、持てる力を注ぎこむ。張りつめた一瞬の中で、緩慢に近づく敵。勝利がゆっくりと近づいてくる、そんな錯覚に襲われた風音は、かすかな異変に気付かなかった。
亜邦の爪が相手に触れようとしたその時、俄かに脚が曲がりだした。見えないガラス玉の上を、完璧だった攻撃がずるずると逸れていく。一点に生まれた大きなひずみが、瞬く間に夜を覆い尽くした。炎が滲み、街が踊る。水平線の両端が、閉じた楕円を描きだす。激しく揺れる街の上で、均衡を保とうとしたことが、裏目に出た。
姿勢を修正した直後、風音は右から引きずられるような感覚に襲われた。同時に、歪みの中から吐き出される亜邦。幻が引いていくのと交代に、色とりどりの屋根が目に映る。羽ばたきながら反転して速度を殺し、着地する。膝が軋んで音を立て、砕けた瓦が舞い上がる。亜邦が飛退くと同時に、3本の虹が民家を刻んだ。助走をつけて飛び上がった亜邦は、通灯を使って加速しながら、ブレイク、薙ぎ払いを紙一重でかわした。水平に『椏殻』を打ち出して、けん制する。放たれた火球は、命中する直前に大きく曲がり、莫とした夜空に吸い込まれていった。
『いったん離脱しろ!』
滑り降りるようにして、把華が割り込んできた。虹の帯も、把華を追う。通灯をふかして距離を取ってから、もう一度高さをかせぐ。
二回、三回、繰り返し攻撃を試みるも、組みつくことができなかった。黒煙混じりの熱風の中、敵の姿が時折ちらつく。そして、四度目の攻撃が失敗に終わったとき、鍵悟が気づいた。
『風音、直上だ!直上に死角がある!』
相手を引きつけながら、古豪はしっかりと観察を続けていた。目標の真上10余幅の空間には、曲がる虹も届かないようだ。
『分かりました!狙ってみます。』
言うが早いか、弧を描いて跳ね上がる、亜邦。距離をとって直上につき、攻撃の機会をうかがう。すると、異様な光景が視界に飛び込んできた。
目標の周囲だけが、町並みの中、二重の輪に切り取られていた。挟まれた車輪状の部分だけが、切り抜き穴の下で揺れ動いている。
『境界面か!』
雨雲の近くを飛でいる時、ある面を境に向こう側がずれて見えることがある。阿那の攻撃を四度防いでいた、それが障壁の正体だった。湿気を吸って、竜の翼が重くなるため、滅多に観測されないが、知識としてなら、風音も知っていた。直接こちらを弾けないなら、攻撃は簡単だ。
街の上を這っていた目標が、時計台をよけようと、向きを変えた一瞬だった。阿那は、動きの止まった目標に、猛然と襲いかかった。気づいて迎撃はしてきたが、鋭い虹を縫うようにロールしながら、間合いのうちへ一気に飛び込む。
そのとき、亜邦をかすめた虹の一本が、時計台に直撃した。赤く照らされた煉瓦の壁が、傷口から土煙りを吹きだす。弾け飛んだ煉瓦の破片が、歪められた球面を、奇妙な軌道を描いてすりぬけてゆく。
『風音!』
偶然のチャンスが、翻って牙をむいた。阿那の体を傾けて、急旋回。肩にかかった大きな力が、耳障りな音を立てる。立ち上がりに通灯を使って、一気に離脱した。音を立てながらゆっくりと倒れこむ時計台が、互いの間合いをたたき割る。舞いあがった土煙りをにらみながら、風音は再び隙を窺った。
風音が真上につこうとするたび、目標は器用に逃げ回った。火の手がじわじわと広がっていく一方で、次第にけん制も激しくなってくる。陀求社に回った味方も、いくらか減って、消耗戦の相を呈していた。
さっきのチャンスも、相手が低空を飛んでいるから生まれたもので、高度を上げられたなら、ほとんど捕まえようがない――違う。風音は、思い違いに気づいた。直上に死角を持つ相手が、リスクを冒して低空を飛んでいることには、それなりの理由がある。
滑り降りるように目標に近づき、バンクして上昇する。同じ動作を繰り返しながら、風音は少しずつ、敵を大通りの方向に追いやっていった。白い巨体が蛇行しながら、町並みの淵に近づいていく。剥がれおちた敵の影を認めると、ゆるやかに翼端を捻って、亜邦は夜空をするどく駆け下りた。けん制の初太刀が、視界に飛び込んでくる。虹に絡みつくように、奔放な羅線を描く。懐には引き入れまいと、敵も斉射で迎え撃つ。引き絞られた赤い翼は、放たれた網の脇をすり抜けた。目標を通り過ぎ、石畳に積もった冷たさをかすめる。仰向けに反転した亜邦が、通灯で強引に体を浮かせる。閃光の滑った後に黒い焦げ目が尾を引いた。
予想通り、足元に盾はない。虹の鞭は曲がりきらずに、通りの家屋を引き裂いた。不安定な姿勢から、狙いを定めた『崇喇』は、見上げる闇夜を薙ぎ払い、二つの殻の間、目標の本体を溶断、 儚い灯りを吹き飛ばす。底のない夜を、鋭い残影が貫いた。
支えと輝きを失って崩れ落ちる残骸が、いつまでも目に残った。
やっとのことで収拾がついた頃には、東の空がしらんできていた。ざわめきをかかえた競技場が遠ざかってゆく中、重い目をこすって水平線を見守る。空と雲海を切り分けた白が、じわじわと一点に集まってゆく。
「開・真名か……私は、何を期待してる」
白い息とともに吐き出した風音の言葉を、しっかりと胸に刻み込む。空の中心から流れ出す山吹が、真鍮の手すりを握る白い指を温め、目覚めた街をなめ上げてゆく。縮まってゆく影と、赤く染まる白煙。残された大きな爪跡が、生々しく朝日の中に広げられた。
身勝手な願いが、許されてよいのか。風音は知らないまま、暁に目を伏せる。乾いた風の吹きすさぶ中、老婆の言葉は宙に浮かんだまま、夜明けとともに流されていった。
ただ、呻きをあげる傷痕だけが、一つの時代が終わったことを知らせていた。
*アルファポリスのポイント集計へのご協力をお願い申し上げます。