果てしなくカオスな穴倉にアレクは果たして順応できるのか。
水しぶきを振りまきながらアレクが表に出てくると、エカチェリーナが赤いペイズリーのハンカチを貸してくれた。
「服以外は何も持って来れなかったでしょ? それ、良かったら使ってね」
ありがとう。チノパンのポケットにハンカチを押し込むと、ハンカチの向こうにキーホルダーの固い手応えがあった。これはもう、記念品にしかならないだろう。アレクは何もなかったように微笑み返し、エカチェリーナについて歩き出した。
「これは、どこに向かってるんだ?」
アレクが訊ねるまでもなく、エカチェリーナは両開きの扉の前で立ち止まった。随分と大きいが、脇にボタンが付いているということはエレベーターなのだろう。
「まずは親方に顔見世だな。観光案内という訳にはいかないさ」
尖った顎をさすりながら、バトゥは肩をすくめて見せた。
「親方?」
ボタンの光が消え、エレベーターの扉が壁に吸い込まれた。エレベーターの中はアレクの部屋よりも広く、4人が操作パネルの周りになんとなく集まると妙に寂れた眺めになってしまう。塗装もされていないステンレスの壁は白熱灯に赤く照らし出され、アレク達の顔も微かな熱に上せて見えた。
「コーリャのことよ。このアジトのボスで、私達が軍隊にいたころからの仲間」
ワゴンの中で話した時、エカチェリーナは城目当てで助けたことを隠そうともしなかった。ボスに偵察だの監視だの協力を求められたとき、果たしてアレクには断ることが出来るだろうか。アレクはわざと瞼を下げ、髪をいじりながらたるんだ声で答えた。
「それもそうか。そうだな。挨拶はしておかないと」
しばらくして、不意にアレクの足から体の重みが抜けた。エレベーターが上に着いたらしい。ステンレスの扉が開き目の前に現れたのは、白熱灯の灯りに染まったオレンジ色の街並みだった。
「広い……中に街が?」
くりぬいた岩盤にタコヤキ屋や美容院が収まり、薄暗いトンネルの中で色とりどりの看板が喚いている。エレベーターの中で立ち尽くすアレクを見て、エカチェリーナは軽く笑った。
「坑道を広げて、道の両側に店舗を埋め込んであるの。少しずつ下りながら、一番下までずっと続いてるのよ」
夕焼け色の坂道は買い物する人々でにぎわい、ゴーダチーズや革鞄、燃えるガスや汗の入り混じったけばけばしい匂いで溢れかえっている。
「後で案内してやんよ。逮捕されてから、どうせ何も食ってねぇんだろ」
レフはアレクの首を抱き、反対の手で小さなカフェを指さした。一枚板のガラス戸には向かいのネオンが映り込み、店内の人影に被さっている。
「ちなみにあれがレフ様御用達のカフェテリアだ。ウェイトレスの女の子がかわいいこと以外は月並みだけどな」
気さくといえば聞こえはいいが、些か馴れ馴れしい男だ。アレクがレフの手を振りほどこうとすると、4人の後ろでガラスの割れる音がした。
「この野郎! やっぱり具をケチってやがったか! どうもおかしいと思ったら、タコの代わりにミノを入れてやがった!」
さっきのタコヤキ屋だ。タンクトップの大男が東洋人の店主に怒鳴りかかっている。穏やかとは言えないやり取りを人々は素知らぬ顔で通り過ぎ、地面に吐き捨てられた牛ミノを踏みつけ、蹴り飛ばしていった。
「なあ、アイツ、おかしくないか? なんで誰も病院に連れて行かなかったんだ?」
埃だらけになった牛ミノに一瞥をくれ、アレクはレフに尋ねた。あんな獣じみた男が世の中にいようとは、まさか神でも思いつくまい。あの男には、今すぐにでも治療が必要だ。
「病院? なんだそりゃ?」
レフは締まりなく口を開けっぱなし、首を傾げながらアレクの事をまじまじと見つめた。
「街の連中は、骨抜きにされるためにわざわざ病院通いするのさ。それが憂いなく人生を楽しむための秘訣ってわけだ」
目を白黒させるばかりのアレクに代わって、バトゥがレフの問いに答えた。
「うへぇ、そんなことまですんのかよ、イカレてるな」
まだタコヤキ屋の喧嘩は続いていたらしい。大男が悲鳴を上げ、坑道にどよめきが滾った。見れば、大男の右手に大振りなピックが突き刺さっているではないか。タコヤキ屋もタコヤキ屋でえげつないことをする。タコヤキ屋が具材を誤魔化したのが先であることを思えば、大男の方がいくらか弁護の余地があるかもしれない。
「そんな……って、普通だろ? おかしいのはお前達じゃないか」
客を騙したり、意趣返しに来たり、それを返り討ちにするなんて、既に十分病的だ。アレクはレフを突き放し、ひきつった声を張り上げたが、返ってきたのはため息混じりの説教だった。
「あれくらいの事で一々目くじら立ててたんじゃ、お前この先やってけないぜ」
アレクはこの先、こんな地獄との国境係争地でやって行かなければならないのだ。歩き出したレフの後ろを、アレクは覚束ない足取りで追いかけた。
3人の足を見ながら、アレクは口元を押さえ、俯き気味に坂を登った。窓一つない坑道に数えきれない臭いが放たれ、行き場を失ってはそこかしこに渦巻いている。脂ぎった料理の臭い、擦違う人の臭い、道端に転がったゴミの臭い。そのゴミも紙屑やビニールばかりでなく、残飯や吐瀉物、何を間違えたのか、排泄物さえ混じっている始末だった。泥まみれという訳ではないとエカチェリーナは言っていたが、泥や砂の方が無機物なだけいくらか清潔だろう。
「もうちょっとの辛抱だから頑張ってね。あと、吐きたくなかったら前を向きなさい。地面にはいろいろ転がってるもの」
アレクは口をきくことが出来ずに小さく頷き、顔を上げてエカチェリーナの背中から目を逸らさないようにした。道中二、三度何か柔らかいものを踏みつぶしたが、見なければすぐに忘れる。他の三人が立ち止まるまで、アレクはなんとか吐かずに歩き通すことが出来た。
「さてと。これから親方に挨拶をするわけだが、気分はどうだ? ああ、待て、言わなくても分かる。『いつでもOKだ。このゲロをお見舞いしてやる!』だろ。ちなみに俺は結構緊張したぜ。軍隊ってやつは嫌な上官に当ると本当に最悪だからな」
エカチェリーナがインターホンに話しかけると、いかめしい合金の隔壁が引き締まった音を立て、岩壁の中に吸い込まれた。映画に出てくる資本主義組織の親玉はスキンヘッドに刺青をするのが半ばしきたりと化しているが、果たしてニコライはどのような男なのか。アレクは音を立てて空気を呑みこみ、荒くれ者の統領と向き合った。
「ようこそ『アジート』へ。俺がこのレジスタンスのリーダー、ニコライだ」
アレクを迎えたのは、素肌にライジャケを羽織った角刈りの男だった。広々とした黒檀のデスクに肘をつき、顔の前で両手を組んでいる。デスクライトの光を受けて真っ白に燃えているのは、ブレスレットに散りばめられた大粒のダイヤモンドだ。
「ダンマリか……二日酔いみてえな面しやがって。ああ、オイ、吐くなよ! その絨毯は安物じゃねえ!」
ニコライは身を乗り出し、アレクの眼差しを払いのけた。アラベスクが織り込まれた分厚い紺の絨毯は静かな重みでアレクの吐き気を押し戻し、アレクが上に乗ることさえも我慢してくれそうにない。
「という訳で無事お連れしました。期待の新人アレク君よ」
エカチェリーナはニコライに笑いかけ、何事もなかったかのように成功を伝えた。アレクがテロリストの悪事に加担することは、どうやら最初から決まっているらしい。
「ご苦労だったな。これで最悪の事態は免れた……それで、アレク、お前さん少しは落ち着いたか?」
まあ、なんとか。アレクは深呼吸の合間に返事をした。表向きは歓迎されているらしいが、ニコライの目はミラーグラスに隠れて読み取れない。
「ええ、まあ。危ないところをどうもありがとう。しがない配線技師のアレクです。よろしく」
アレクがようやく挨拶すると、ニコライはため息をつきながら革張りの椅子に体を沈めた。
「お前の話は大体聞いてる。仕事中に感電して開眼しちまったとか……まるでエセ教祖だな」
ニコライの言う通り、あれだけ大騒ぎをした割にあらましはインチキ心霊体験そのものだ。その心霊体験に公安とテロリストは血眼になり、アレクは今も脅かされている。
「臨死体験もしたけど、聞くかい?」
肩をすくめて笑いながらアレクがニコライに尋ねると、ニコライも付き合い、執務室の高い天井に凄みの利いた笑い声がこだました。
「その話はコルレルのところで一緒に聞かせてもらうとするさ。今はっきりさせたいのは、お前の食い扶持のことだ。見ての通り、ここはお客さんを置いておけるほど広くねえ……」
とうとう来るべきものが来た。ここで暮らすつもりなら、彼らの戦いに城を役立てろという訳だ。ユレシュの企てを阻むためだとエカチェリーナは言っていたが、いずれそれ以上の、カルラを裏切るようなことを求められるかもしれない。押し黙るアレクを、ミラーグラスに映った灯りが静かに見つめている。
「それなら俺の助手にならね? 機械いじりは得意だろうし、さっき見てたボルゾイも、俺の担当ってゆー」
助け舟は、明後日の方向からこぎ着けた。その場の全員がレフに目をやり、半端な形で口を開けている。アレクはすかさず相乗りし、レフの手を両手で握った。
「助かるよ。やっぱり工具を握ってないと生きてるって感じがしないし、あんなスーパーマシンに触れるなんて、ここにきて初めてツキが回ってきたかも!」
本音がいくらか混ざっている分、アレクの合いの手は滑らかだ。ニコライに目を向けられて、エカチェリーナとバトゥは弱々しい微笑みを浮かべている。
「……街から来てすぐに俺たちを信用するわけにもいかねえか。まあいい、バカよりはマシだ。党と戦うのが正しいかどうかは、全部話を聞いてから自分で決めろ」
革の擦れるくぐもった音を立て、ニコライが立ち上がった。肩幅もさることながら上背もかなりのもので、人並みの背があるアレクでも見上げる格好になってしまう。
「通りを下った所にコルレルって医者がいてな。そいつがお前の知りたいことを知ってる。お前の見たものは何か、党の連中が何を変えたのか、ユレシュという男が、一体何を発見したのか」
ついて来い。ニコライに促され、アレクは執務室を後にした。当時の話は、カルラからも詳しくは聞けていない。コルレルという男には、会っておくだけの価値があるだろう