ふたり回し

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残像

前回に劣らず、ヘビーなシーンだった……


「ああ、そうだな……帰らないと」

 アレクはレフと目を合わせ、それからテーブルの上を眺めた。見慣れた青いクロスと、花柄の円皿、数枚だけ抜き取られたピッツァ。こうして街に戻ってきさえすれば、そこには元通りの毎日がある。穏やかで優しく、満ち足りた街での暮らし。テロリストが潜んでいるとは、とても思えないほどの。

 アレクは重たい影を引きずり、二人の後について行った。そういや、班長達への土産がまだだったっけなぁ。レフは何かと話を振ったが、アレクから返ってくるのは曖昧なうわ言だけだ。

「そんなこと言ったら、アタシもリィファ達には何も買ってないよ」

 また今度、みんなで来ればいいじゃん。アグラーヤはレフに一瞥をくれ、路面電車のの駅を指さした。

「そっか、そっか。だよね。決まってるよね」

 レフは苦笑いを浮かべ、ラーヤの戦利品を持ち直した。指に噛みつく手提げの群れは、一つ残らず彼女のものだ。散歩に連れていくには、いささか数が多すぎる。レフは素直に引きさがり、駅のベンチに荷物を座らせた。他の客が居合わせていたら、二人は両手を食いちぎられていたことだろう。電車の席も空いていたのは幸運の極みだったと、トロッコを漕ぎながら二人は思い知らされた。

 アジートへの帰り道は、文字通りの地獄だった。背骨と指先は早々に悲鳴を上げ、トロッコのスピードは上がらない。元々鈍いアレクの動きは一漕ぎごとにますます萎れ、最後はレフの一頭立てだ。アジートに辿り着くと3人はその場で別れ、各々の部屋を目指した。

 アレクはすっかり打ちのめされ、シャワーも忘れてベッドの上に転がった。こうなってしまうと、首を動かすことさえ面倒くさい。力尽き、硬いベッドに打ち上げられた体は、しかし、安らかな眠りを受け付けてくれなかった。

 手首、膝、足首、肩。あちこちの筋が熱を持ち、しつこくアレクを呼び続ける。左手で右手引き寄せ、腹の上に横たえようと、耐えかねて短く怒鳴ってみても、しつこい痛みを振り払うには物足りない。長く青ざめた溜息が途切れると、アレクはもたもたと起き上がり、部屋の中を見渡した。

 空っぽだった部屋の中も、バザールのお陰で幾らか様になってきた。壁にかかったアロハ、隅に立てたラック、壁際に寄せられたコンポ。きな臭い常夜灯のオレンジ色に寝巻にサンダルをつっかけ、黴臭い部屋を後にした。

 

 アジートには、夜というものがない。大通りには人が行き交い、並んだ店から光が伸びている。人通りが少なく見えるのは、バザールに客足が流れているからだろう。足下はおぼつかないが、重みの抜けた体なら取り落とすこともない。熱い腕をさすりながらぼやけた景色の中を彷徨い、重力に誘われるままアレクは一番下まで滑り落ちた。

 開け放たれたゲートの向うでは、バザールがうごめいている。ざわめきに追い立てられ、ガレージに逃げ込むと、アレクは手探りで電灯をつけた。現れたガレージに先輩たちの姿はなく、待っていたのは段ボール箱だけ。レフはきちんと、バンプストッパーを運び込んでくれたらしい。ドアの前に居座った段ボールには、几帳面に付箋までつけてある。

「また今度、埋め合わせをしないとな……」

 壁際のソファに腰を下ろし、アレクは足を投げ出した。動かしていないというのに、筋肉がきしむ音は絶え間なく骨を伝わり、頭まで上ってくる。シャッター越しに聞こえる声も、焼けついた体には刺々しい。アレクは目を閉じ、ハンガーの天井を仰いだ。最初は鼻についた胡散臭い油の臭いが、いつの間にか当たり前になっている。借り受けたツナギの臭い、ボルゾイを流れる血の臭い、アジートで与えられた持ち場の臭い。既にそれらはアレクの臭いになりつつある。溜息をつき、ソファの上に倒れ込むと、ポケットの中で小さな音がした。

 こんなガラクタを、なぜ未だに持ち歩いているのか。無事な左手でぎこちなくポケットの中を探り、アレクは鍵を取り出した。この鍵で開く扉は、もはやどこにも残っていまい。とうの昔に、新しくまともな扉と交換されたことだろう。今までもそうすることで、保たれてきたのだから。アレクは鍵を電灯にかざし、唇をねじって笑った。

 白熱灯の下で見ると、六角形のキーホルダーはうっすらと日焼けして見える。ゆっくりと捻じれながら光を放つミツバチを、アレクはぼんやりと眺めた。変わってなどいない。街でアレクが見たものは、在りし日のままの姿だ。人々も、暮らしも、街角も、何一つ変わってなどいない。変わってしまったのは、アレクの方だ。あの穏やかな茶番の中には、二度と戻れないほどに。この鍵を持っていることに、一体何の意味があるのか。ぼんやりと見上げながら、しかし、捨てられずにいるうちに、ハンガーを一人の男が訪れた。

ボルゾイは出せないぞ。ホールがあの騒ぎだからな」

 見向きもせずに釘を刺すと、硬い返事が跳ねかえってきた。

「馬鹿が。知った風な口を聞くな。ハッチが一つしかない筈がないだろう」

 イワンだ。痛む背中を黙らせて、アレクはどうにか起き上がった。前に一度見かけたときと同じ擦り切れたダスターコートが、肩を怒らせて壁際を歩いている。

「何だ? 他の出口?」

 アレクは鍵をしまい、重そうに立ち上がった。立ち止まったイワンの前には、二つの押しボタンが並んでいる。あること自体は知っているが、アレクには使われるところには立ち会ったことがない。酒が入っているのだろうか。イワンは大きくしゃっくりを巻き上げてから、赤い方のボタンを押した。

 何の装置か確かめようとアレクがもたもた歩き出すと、安っぽいブザーが脅しかけてきた。壁の上を回転灯の黄色が滑り、足下では赤と緑のダイオードが瞬いている。床を走るステンレスのラインに気付き、アレクは小さく声を上げた。

「ああ、エレベーターか……俺も乗せてくれないか?」

 イワンが足場の上に乗るのと同時に、ステンレスの銀色が黒い床から生えてきた。ボルゾイ用というのも、恐らくは本当だろう。剥き出しのエレベーターは、アレクの部屋より余程広い。

「勝手にしろ。落ちても知らんがな」

 答えを貰うより早く、アレクはエレベーターに足をかけている。エレベーターは二人を乗せ、ゆっくりと地上へ滑り出した。ハンガーは少しずつ足下に沈んでゆき、エレベーターが縦穴に入ると完全に見えなくなった。ハッチまでには、どれくらいの時間がかかるのだろう。アレクはイワンに目をやったが、イワンは壁に向かい、それきり何も口を聞かない。滑車の呻きと警告音が、太い縦穴を上ってゆく。

「……結局、乗らないんだな」

 床に直接腰を下ろし、アレクはイワンの背中に当てつけた。コートから出た右手には、スキットルが光っている。

「外の空気を吸いに行くだけだ。悪いか」

 いや。アレクが答えると、そこで話は途切れてしまった。前々から分かっていた通り、取りつく島のない男だ。穴を支える鉄骨とナフサランプの黄色い縞が二人の周りをゆっくり滑り、足元に消えていく。今更降りることも出来ずにアレクが言葉を探すうち、エレベーターは音を立てて止まった。

「着いた……のか?」

 イワンが答えるより早く、一面の黄色に切れ目が入った。赤い。目の前の壁は鈍い唸り声を上げ、外側に跳ねあがってゆく。やがてハッチの奥から現れたのは、山の端を焦がしながら沈みゆく太陽だった。遠くの山並は厚手の影を纏い、通路の床は赤く染まっている。ハッチが開き切ると、イワンは太陽に向かって進み、通路の縁に腰を下ろした。

「この間は、お手柄だったらしいな」

 アレクが隣に屈み込むと、イワンは振り向かずにスキットルを差し出した。表面に指の跡がはびこり、あまり清潔そうには見えない。まさかそれを口実にするわけにもいかず、アレクは冷たいスキットルを受け取り、口をつけないように上から注いだ。アルコールの臭いに混じって、ココナツミルクの白い味がする。

「仕方なくだ……意外だったな。蒸留酒だと思ってた」

 中を覗いてから、アレクは酒を返した。スキットルは細かい露に覆われ、その一つ一つの中で夕日が燃えている。イワンは一息に残りを飲み干し、焼けついた溜息をゆっくりと赤い空に返した。

「ヴォトカだ。中身はな」

 それで。イワンは頬杖をついた。

「お前は何をしに来た。整備班こそもう店じまいだろうが」

 実のところ、アレクにはハンガーまで来る理由がない。足腰にガタが来ていたのだから、猶更だ。うまい答えはなかなか見つからず、そのうち太陽が山際に触れた。

「ホールが煩いから、避難してきただけだ」

 サンダルのつま先が、角ばった小石を転がした。山肌を覆う砂利に、小石はたやすく紛れてしまう。

「……今日、街に行った。友達にも会ったよ」

 アレクが苦笑いを浮かべても、イワンは何も返さない。鼻を鳴らして、夕日に目を戻すだけだ。沈みかけた太陽は鋭い光を振り絞り、山肌を赤く染めている。

「きれいさっぱり――いや、初めからいなかったんだ。俺は……」

 ポケットから取り出すと、ミツバチのキーホルダーは手の中で安っぽく輝いた。今のアレクにとって、これは何の願掛けなのか。今のノンナにとって、これは誰との思い出なのか。不思議と涙は流れず、枯れ果てた笑いが零れる。

「分からなくなってきた。どこからが本当なのか、どこから俺がやってきたのか」

 握りしめた拳に、鍵の歯が食い込んだ。後にした部屋の鍵、与えられた暮らしの鍵。いつかは取り戻せるはずだった、穏やかな日々の鍵。震える手を振りかぶり、アレクは力任せに鍵を投げ棄てた。少し山なりに飛んでから、鍵は赤い光をちらつかせ、谷底に落ちてゆく。夕闇の中に沈み、鍵が燃え尽きるのを見届けてから、イワンは立ち上がってコートの裾を払った。

「この国は、全部まやかしでできてる……連中がその気になれば、街でさえもなかったことになる」

 二人はそれから口を聞かず、夜が坂を登ってくるまで赤い空を眺めていた。小石を雪ぐ風の中に、大きな蛾が電灯を叩く平べったい音だけが聞こえた。