ふたり回し

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拒絶―1

駆け引きは書いてて不安になる……

 一番怪しいのは、やはりユーリの扉の真裏だろう。バルコニーの谷まで戻り、アレクは入ってすぐの通路を物色した。寮と同じような鉄の扉が三つ並び、一枚分の間を開けて一番奥に四つ目の扉がある。どの扉に入っても何かしらの発見は約束されているようなものだが、そのせいで扉を選ぶことは余計に難しい。腕を組んでバルコニーを往復すること数分、漸く進展への第一歩が定まった。

 書きかけの概要を前に、アレクは背もたれを大きく軋ませた。ブローカ野三角部、前頭前野ヘの投射を行うニューロンのうち、第3群及び第4群の軸索に70ミリボルトの電圧を1ミリ秒。半ば公式と化した条件が、研究を袋小路に追い込んでしまっている。無論大規模な実験の結果得られた数字ではあるし、自分を含め多数の研究者が少しずつ異なる条件で繰り返し実験を行い、その正しさを確認したてきた。だが、未だに二人目のЭが現れないのは、その実験が失敗しているからだ。
 複数の選択肢を遡り、一見問題外の可能も挙げてみよう。被験者側の問題だとして、求められる条件は何なのか。電気刺激の方法以外の処置、薬品や催眠、或いは積極的なトレーニングを含む行動療法を併用してみては。思い切り正答例を疑ってみる、例えば弓状束への刺激ではなく、そこから尾状核に伝わった刺激に原因を求めるのはどうか。静寂に走るペンの音を、無粋なノックが不意に遮った。
ハバロフスク市警アフトダローガ署捜査二課のジブリールという者です。ピョートル先生からのご紹介で参りました」
 転属前の病院でサールが受け持つはずだった、ある患者を追っているのだという。アレクは椅子に座ったまま振り返り、本棚越しにドアを睨んだ。
「遠路はるばるお見えになったのに申し訳ないが、ここ数年、ピョートル君が患者を回してきたことはありませんよ」 
 まさか。相談は受けたが、ピョートル本人に紹介を薦めたわけではない。あの男は、保安局から回されてくる手筈だったのだ。アレクは授業のファイルを開き、なるべく音を立てないよう、裏紙をゆっくりと引き出しの底に落とした。
「それもその筈、彼は他ならぬ私に逮捕されてしまったんですから。その上二時間後には保安局が引き取りに来ましてね」
 随分とせわしない話ですが、不幸なことにそれが最後ではなかった。引き下がるどころか、刑事は扉越しにも大きな声で話し続ける。
「その後、彼の身に何が起こったと思いますか?」
 こちらの打つ手は最小限の相槌だ。帰ってもらう理由も、入ってもらう理由もないのだから。鍵穴を見つけられず、窮屈な足音は青白いドアの前を往復している。
「私もそう思いました。が、さらに別の迎えがやって来た」
 テロリストが護送車を襲って彼を捕らえ、或いは、救い出した。刑事の説明は端的というより、一足飛びと言った方が正しい。
「私なりに調べましたが、その男は連中の仲間でもなければ、ましてや党の重要人物などではありえない」
 保安局とテロリストが取り合う程の理由が、一体どこにあるというのか。ピョートルの話も初めは話半分に聞いていたが、問題はその日付だ。
「保安局が動いたのは、彼が転院の勧めを断った直後だ。転院して貰わなければ困る御仁が、どこかに居たのかもしれませんね」
 例えば、オホーツクの研究所とか。足音がぴたりと止まり、扉の裏で歪な気配が膨れ上がった。
「感心しかねますな。刑事の身でありながら、保安局の肚を探るとは」
 アレクの打った釘を軸に、テーブルが渋々回り出す。
「だって不思議じゃありませんか。前は御用聞きもやってくれたのに、保安局が掌を返して学者狩りを始め、先生ははるばるカスピ海まで逃げる羽目になった。何故です?」
 話を逸らすどころか、開き直って向う脛に噛みつき返すとは。冷たい指摘が鳩尾にめり込み、腸を引きずりながら秘密へと下ってゆく。
「隠居ですよ。部下が反社会的な勢力に加担していた責任を取るためにね」
 実際のところ、この刑事はどこまで知っているのだろう。書棚に混じった銀色の題名が、奥に目を凝らす程に眩しい。
「反社会的な勢力というのは、先生の資料を攫っていった連中のことですか?」
 成程、全ての元凶はテロリスト共だ。連中がオハを襲ったりしなければこの騒動は始まりもしなかったのだから。相槌を打ったかと思いきや、刑事は重い不意打ちを食らわせた。
「ですが私はこう考えています。一連の騒動は、オハの襲撃で始まったのではない」
 あの男がテロリストに捕らえられた所から始まっているのではないか、とね。たとえ偶然でも当たるのだから、なるほど、現場の勘というものも存外侮れない物だ。
「単なる偶然でしょう」
 因果関係などない。それが客観的な理解である以上、白を切ることに何の不自由があるだろうか。分からない筈もないというのに、刑事に引き下がる様子はない。
「保安局の考えは違うようです。今まで野放しにしていたテロリストを、ここに来て急に掃討し始めた……先日もハバロフスク近郊の拠点になかなかの大部隊を送りこんでましたよ」
 目撃証言を辿って密売品のルートを遡った先で、刑事は地雷防護車の列を見た。車道から森へ分け入る荒れ果てた道を、戦闘服の隊員を伴い防護車が上ってゆく。奥から銃声が聞こえてくるまでに、十分とかからなかったという。興味を引くための法螺話だ。前歯の間から、乾いた溜息が漏れる。
「信じられませんな。いくら田舎でも、それだけ大きなニュースが伝わってこないはずはない」
 向うから聞こえてくるのは、しかし、押し殺した笑い声だ。私も何が起こったか見たわけではありませんがね。
「もみ消されたということは、結果は推して知るべしというところですか」
 誤魔化すどころか、刑事は余計に売値を吊り上げた。実際に保安局が本腰を入れたなら、奇跡でも起きない限りテロの隠れ家などひとたまりもない。
「まさか。それこそデマにもなりませんよ」
 人を担ぐつもりがあるなら、猿でも少しはマシな話を考える。何かが起こったのだ。あの男は、既にЭの到達できなかった段階に進行しているというのか。心理学史の上に巡り始めた思索を、しかし、刑事の声が遮った。
「とはいえ、二度も三度も奇跡が続くことはないでしょう。遠からず彼らは根絶やしにされる……あの男とて例外ではありません」
 画面がスクリーンセーバーに切り替わり、暗闇に尾を引きながら赤いレンガが積み重なる。交換条件は透けて見えるが、刑事の肚は窺いようがない。デスクの上で手を組み、アレクは大きく息を吸った。
「それは気の毒ですな」
 つれない答を予想していたのか、刑事は間髪入れずに合いの手を詰めた。
「全くです。これでもし彼がテロリストに協力を強要されているだけだったとしたら……余りに不憫」
 ですが。救い出す機会が、今なら回ってくるかもしれないという。保安局との戦闘が近づけば、連中があの男を逃がすなり、警備が手薄になる状況は想像に難くない。
「お入りください」
 画面一杯のレンガが、瞬く間に消え失せた。
「その男の身の振り方については、私が多少はお力になれるでしょう」
 音もなくノブが傾き、見覚えのある男が入ってくる。本棚の隙間からでも見間違いようのない、青灰色の冷たい瞳。アレクを逮捕した、ガブリールという刑事だ