ふたり回し

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水の天蓋

第一話

next陽炎の夜 - ふたり回し

            10/1 15:21  雨・交差点

 

飛沫をあげたローファーで、アスファルトを蹴りつづけた。

次第に強くなる雨音が、大きな足音を呑みこんでいく。

崩れた髪を払いのけると、瞬く青が目に入る。

「ダメだ、行ってしまう」私は光を追いかけた。

白い梯子は短いけれど、岸はあまりに果てしない。

消え入る青に、続く赤。雨に滲んで広がってゆく。

凍った雨の交差点を、鋭い悲鳴が引き裂いたとき

          

世界が光に沈んでゆく






 波の音に目を覚ますと、風音は即座に飛び起きた。板張りの粗末な壁を探って、平らな所に耳をあてる。砂が擦れ合うような規則的な音に、足音が混じっている。じっくり構える猶予もない。薄闇に眼を凝らすと、屋根の隙間から差し込む光をうけて、金属が輝くのが見えた。手に取ってみると、短い槍のようだった。已然石があればとも思うが、それはどうやら贅沢らしい。

 生臭いがらくたばかりで目ぼしいものが見当たらず、諦めて扉に向かう。音を立てずに扉の隣に張り付いて、息を殺す。さっきの足音が、近付いてくる。扉の前でぱたりと止んだ。つかんだ槍を、握りなおす。扉が軋んだ音を立てたとき、風音は槍を突き付けた。


 大きな悲鳴に驚いて、思わず槍を突き出しそうになった。不溜人(ブーア)の、子供だ。へたり込んだ女の子の引き上げると、眩しさに目がくらんだ。白い砂が、一面にひろがり、制服の長靴ほどもある波に洗われている。空よりも深い青が、世界の果てまで続いている。雲は、ゆっくりと頭上を流れている。見たことのない景色に圧倒され、唇を溜息が抜けていく。見慣れているはずのものばかりなのに、自分の目が信じられない。まるで、果奈が借りてきた『地上の記述』の世界だ。

「ここは・・・」

「か、関郷島や」不意の答えに、風音はただ頷くばかりだ。


「あんた、どこら流されてきたん?海、珍しいん?」

強い訛りで、覗き込んでくる。眩しさに慣れてくるうちに、記憶も次第にはっきりしてきた。あのときから、進歩がないとは、情けない。

「火の、富(プラー)良樹(ジパティ)から。私は・・・お前が拾ってくれたのか?」

振り向きもせず、呟いた。


「わしや、わし」女の子の代わりに答えたのは、日に焼けた、大柄な男だった。風音よりは2、3年上の、この子の兄だろうか。

「世話になったな」と独り言を言い、何かを探しているかのように、再び目を海に泳がせる。

 しばらくしてから、風音ははっとして振り向いて、「亜邦を見なかったか。私の龍(ナーガ)だ。」と尋ねたが、突然の質問に、二人はあいまいな表情で首を振っただけだった。

一瞬の間をおいて、兄の方が手招きした。「ついてこい」砂浜を歩きだす。向かう先に、ちらほらとみすぼらしい小屋が散らばっているのが見えた。焼けるような砂の上に、三列の足跡がのびていく。

 何でも、事の次第を長老に報告しなくてはいけないらしい。ずっと、そうして守ってきた、小さい村なのだと、妹は言い訳するかのように付け加えた。誰かが亜邦を見つけていたなら、そちらに伝わっている可能性も高い。風音とて異論はなかった。もとより、不溜人に信頼してほしいとも思わない。

 風音は、白昼夢の中を歩きつづけた。鈍い足音が、波の唸り声にのまれていく。次第に、背をつたう汗が気になり始めた。この日差しでは、二人がぼろ一枚なのも不思議ではない。逆に、信じがたいのは、彼らが何も履いていないことだ。風音はさっきから、足跡が増えるたびに足がすり減ってはいないか、そんな心配ばかりしている。不溜人の足の裏は、焼けた砂浜を歩けるように、特別分厚く作ってあるに違いない。裾からのぞいた女の子の細った足さえ、風音より頑丈にできているのだ。

「待ってくれ、自己紹介がしたい」なけなしの自尊心から、心にもない台詞が出る。

 振り返った少女は、つま先立ちの風音を見て、腹を抱えて笑いながら戻ってきた。

「かざねだ、不知火 風音。」そっぽを向いて、もごもごと喋った。

 まだ苦しそうに堪えながら、「わしは、いをり、あっちが兄貴のゆきとや」と言われて、恨めしそうににらみつける。返ってきたのは満面の笑み、浅黒い手で風音の手をつかみ、海に向かって駆け出した。

「くぉっ」あまりの熱さに、思わず呻く。復讐を誓いつつ、引きずられるようにして波打ち際へと向かう。海がぐんぐん迫ってくる。蠢く巨体は近くで見るほど気味が悪い。海とは、静かな絨毯ではなかったのか。飲み込んだ悲鳴がせり上がってくる。

 ついに、覚悟を決める時が来た。左足が、海に呑みこまれてしまったのだ。もう一歩、二歩と、いをりは風音を引きずり込んだ。

 恐る恐る目をあけた風音は、はっとして頭を巡らせ、足元を眺めた。初めて入った海の感触は、なんのことはない、ただの水と全く同じだった。心地よい冷たさに、長い溜息が出た。今思えば、

「情けないな」

 風音が呟くと、

「丘の人やし、しゃあないって。熱かったやろ。」

 と慰めてくれた。

 本当はそういうことではないのだが、頬をかいて、ありがとう、とだけ言ってみた。浜風が、青みがかった髪をなで、潮の香りを運んでくる。大きく深呼吸して、いをりに向き直ると、黒い瞳を覗き込んだ。

「あそこに見えているのが村なのか。ずいぶん・・・こじんまりとしているが」

「ちゃうちゃう、あれは漁師小屋。村は丘の向こう側や」

 いをりは、顎で白い丘を指した。ところどころに草がなびいているだけで、寂しいものだった。

「・・・ということは、いをりの家もあの向こうなのか」

 何気ない質問は、輝く瞳を曇らせた。いをりは、答えにつまってしまった。

「すまない。いらぬことを聞いたな」

 いをりが何か言おうとしたそのとき、遠くで叫び声がした。

「いをり、さっさと来んかい」ゆきとだ。風音はいをりの手を引いた。

 できたばかりの足跡を、波が洗ってゆく。さっきと変らぬ様子のいをりを、風音は見つめることができない。結局何も言いだせないまま、小屋の所まで来てしまった。

小屋の影から、無遠慮な視線を感じる。なるほど、不溜人には、昴人(スバル)は珍しかろう。私はいい暇つぶしか。そんなことを考えているうちに、見物人は増えていく。子どもと違って身の程はわきまえているようだが、遠巻きに観察されるのは決して気分のよいことではなかった。

「風音、こっちや」

 気がつくと、いをりがずいぶん先にいた。砂丘の上で、大きく手を振っている。助かった。風音は砂の熱さも忘れ、緩やかな丘を駆け上がった。


 いをりに追いつくと、鬱蒼とした森の中に大きな屋根が見えた。無論、市街ほどではないが、予想よりははるかに立派だ。

「本当だったんだな。」風音は感嘆の声を上げた。

「本当・・・って、何があると思ってたん」

「そういうわけではなくて、その、砂地が、その・・・」

 訝しげな瞳に覗きこまれ、答えにつまった。

「地の果てまで続いているものだと」

 いをりがけらけらと笑いだしたので、身構えていた風音は拍子抜けしてしまった。

「何、それ。海辺だけやって、そんなん。砂丘、ゆうてな・・・」

「下界の地理など、習わなかったぞ、私は」

 もう少し『地上の記述』を詳しく読むべきだったろうか。断片しか思い出せない。風音の言い訳をよそに、いをりは砂丘を下りだした。この小憎らしい小娘は、まだ苦しそうにしている。

 家々は、どれも木製で、大きな屋根は、籠用のヤシの葉で葺いてあった。貧弱な壁の間には簾があてがってあるというのも本当だ。二人が村の中心に着いたころには、無遠慮な視線が、床下の柱の陰からのびてくる。本当に、不溜人は礼儀というものを知らない。


 いをりが立ち止ったのは、村で最も大きな家の前だった。ゆきとが階段の前で腕を組んで待っていた。風音を認めると、中に向って何やら呼びかけた。出てきた二人の見張りに付いて、風音は一段一段階段を進んだ。風音が通された部屋には、窓が一つもなかったが、意外なほど涼しかった。背筋を冷たい汗が伝う。入口のすだれから漏れた光が、風音の影と、部屋の奥の暗がりを浮き上がらせた。

「そこ、連れ奉る。風音、後で服、取りにきいや」

 いをりの声に応えたのは、遠くの波の音だけで、当のいをりもいつの間にかいなくなっていた。

 何をされるか分かったものではないが、長老ともなれば、人質にできる。見張りだと思っていた二人の男も、すでに返されたらしい。拳をかたく握ったまま、沈んだ暗がりとにらみ合いが続いた。積み重なった冷気には、波の音さえ遠ざけられる。身震いが始まって、外の者に声をかけようと風音が立ち上がろうとした、その時だった。

「富良樹の上から、なんでまたこんなところに来はった。娘一人で、物見遊山いうわけはないの。それも・・・ええ所のお嬢さんが」

 風音の予想は裏切られた。闇の奥から聞こえてきたのは、しゃがれた老婆の声だった。

「紅い眼、そう、不知火の・・・」

 薄闇はつづけた。這い上がる怖気に、全身が凍りつく。

「さて、話を聞かせてもろても、ええかの」

 聞かれて初めて、思い出した。姿勢を正し、恭しく頭を下げる。

「不知火風音と申します。この島に流れ着きました。水の天蓋に、ぶつかって・・・。阿那は、ご存じありませんか。竜です。私の」

 浮き上がったばかりの風音は、あまりに息が続かない。

「残念じゃが、そんな知らせは届いておらぬ。水の天蓋に・・・何があった」

「笑われるかもしれませんが、通り抜けようとして、その」

 黒く塗りつぶされた静けさを破ったのは、肌に刺さる衣ずれの音だった。入口の前で、風音はもう一度身構える。

「ふむ、どこで聞いた。昴人は、向こう側を知らないはずじゃが」

 俄かには信じがたい答えだった。水の天蓋は、世界の果て。流れおちる水の向こうには何もない。それが、彼らの「常識」だった。

「五年前のことです。私は、兄があの壁を越えてゆくのを見ました。」

 この老婆ならば、と夢中で話す内に、体が熱くなってくる。

「なんと、潜り抜けた者がいるのか!しかして、兄上は」

「それきり、帰っては来ませんでした。でも、居るんです。あの壁の向こうに」

 二つの拳に、汗をぐっと握りしめる。

「そうか、気の毒な事を聞いたの。そうじゃ、何かの助けになるやもしれぬ。一つ昔話をしてやるとするかの」

 気がつくと、いつの間にか汗は引いていた。老婆の言葉は静かな闇に染みわたり、風音の血に広がった。

「世の始め、八つの国ありき。富良樹の北と南に五つごとありしを、人は神とせり。神に賜る言の葉を、そのしるしとして、神の翼にかづきけり。千と五百二十一の年のある夜、南の空の濁り、富良樹の凍る、恐ろしきこと、いふべうもあらじ。玻璃の翼の空を覆うに、あまたの人、赤き流れに乗りて北へと禍を逃れり。水の天蓋ぞ、これをふたぎにける。北の人、これを樹の下に住まわせ、不溜人と呼びならはす」

「馬鹿な、これではまるで・・・」

「そう、お主らが不溜人とよんでいる者たちも、かつては竜とともに空をかける力があったのじゃ。南から逃げてきた者たちには、富良樹に住まうことは許されなかったがの。」

 思い上がった老婆の顔が、一瞬闇に浮かんだ気がした。

「そんなことがあるはずがない!いや、あっていいはずがない!」

 激昂して上から叩きつけた言葉にも、語り手はびくともしなかった。

「だが、お主は知っていよう。水の天蓋は、世界の果てではない、とな」

 振り上げた拳を、重たい視線が押さえつける。もはや風音には、振り下ろすことも、鞘に収めることもできなかった。老婆の囁きに耳を傾けようとした、安易な自分を許すことも。

「そうじゃな。受け入れがたかろう。が、最後には明らかになるのが真実じゃ。」

 噛み潰した怒号をもらしながら、それでも風音は、ゆっくりと腰をおろした。聞き返すしかないのだと、どこかで分かっていたからだ。

「何が、起こるのですか」



 見張りの男に連れ出された時には、太陽が海に浸かっていた。夕日の色だけは、富良樹の上と変わらない。水平線に滲んだ赤は、静かな海を照らしている。

 血のような潮風の香りをかみしめていると、

「どうやった」

 後ろから、いをりが訊ねてきた。突然声をかけられて、風音は答えに詰まってしまう。

「そうだな、長老は、その・・・不思議な人だったよ。いつもはどんな感じなんだ」

 このでたらめな台詞にも、思いつく答えがあったらしい。いをりは肩をすくめて、おどけて見せた。

「長老様がお見えになるのは、年に何回かだけやし、わしにもよう分からん。そやけど、怒られんで、よかったやん。長老様が怒ったら、嵐がおこる、ゆうし」

 夕日に向き直って、「ありがとう」と呟く。せりあがってくる『だが・・・』をせいいっぱい呑みこんだ。

 悲鳴があがったのは、風音のすぐそばだった。ふたつの鋭い大きな影が、鬼灯色にそまった砂浜を滑ってゆく。悲鳴は瞬く間に村中に伝染して、人々は逃げ惑った。ただひとり、風音だけが笑って空に手を振っていた。

「果奈、ここだ」

 二匹の竜が、ゆるやかな弧を描いて、ゆっくりと降りてきたとき、そこには、もう彼らの姿しかなかった。羽ばたいてわずかに浮き上がり、制動をかけながら着地する。大きなかぎ爪が、湿った砂に沈んだ。唯祈が首をもたげると、額の結晶がほのかに輝き始める。こぼれ出た光の帯の中に、懐かしい姿がゆっくりと浮かんできた。肩まである胡桃色の髪。いつもの控え目な微笑み翠の瞳には、風音の笑顔が映っている。

果奈は、風音に駆け寄ると、すがるように手をとった。

「よかった。見つからなかったらって、そんなことばっかり考えてた」

「すまない。心配をかけたな。阿那も、ご苦労だったな」

 逆光で表情こそ見えないものの、亜邦が誇らしげに鼻を鳴らすのが分かった。黒い影が夕日に滲んで、いつもより大きく見える。

「今朝水汲みに出たら、亜邦が外で飛び回ってるんだもの。びっくりしちゃった」

「何はともあれ、助かった。私のせいで朝食も取り損ねたんだろう。さあ、帰るぞ、亜邦」

 軽やかに砂浜を蹴って、亜邦にかけよる。が、風音はいきなり呼びとめられてしまった。

「その前に」

「何だ」

「その格好で戻るのはまずいんじゃない。元の服に着替えたら。乾いていれば、だけど」

 言われて初めて自分の格好を確かめると、なるほど、ぼろだった。いをりの話を思い出す。着せかえたのは、いをりだろうか。風音はいをりであることを祈った。

「髪もぼさぼさだし、笑われちゃうよ」

 果奈は碧い髪を、優しく撫でつけた。

「取りに行く。少しの間待っていてくれ」

 風音はあわてて駆け出した。はいはい、と頬を緩めている果奈に、振り返って叫ぶ。

「笑うな、兵は素朴を好むものだ」

 温かい夕日が二人を包んだ。


 昼にたどった道を思い出しながら、砂浜を歩いてゆくと、しばらくして、風音の寝かされていた小屋が見つかった。いをりの家も、そう遠くはないはずだ。目を凝らすと、小屋の裏手に何かがつるしてあるのが見えた。もしかすると、自分の服かもしれないと、風音は確かめに行くことにした。

 果たしてそこには、服が干してあった。ただし、魚の群れの中に。頭の付いている魚を見るのは初めてだったので、風音はしげしげと見つめた。干物の陰でこそこそと着替えると、風音はいをりの貸してくれた服を、もう一度眺めた。いをりには大きすぎるし、いをりの兄のものでもなさそうだ。彼らの母のものだろうか。すっかり褪せた縞模様が、寂しげに見えた。

 ふと、小屋の中から声が聞こえてきたような気がした。そっと壁に耳をあてる。あの兄妹だとは分かったが、波の音が邪魔で、内容まではさっぱりだった。

そうこうしているうちに、不意に扉の開く音がした。二人の足音が、表から裏手に回ってくる。怪しまれないよう、おもむろに服をたたみだす。

「世話になったな」

 風音が差し出した服を、いをりはひったくるように取り返し、走り去ってしまった。時間をかけて細い目の能面を作ってから、風音はゆきとに向き直る。洛澄の養成学校で、初めて身につけた技術だった。

「妹の無礼を、どうかお許しください」波の彼方から、図体に似合わない卑屈な声が返ってきた。細々とした言い訳は、赤い海に沈むばかりだ。左手で制し、震える声を絞り出す。

「もう、よい」


 冷めきった砂浜を蹴って、追われるように走り出す。血の色に染まった海が、異様に生暖かい。


 戻ってきた風音を見て、果奈が駆け寄ってきた。

「何かあったの」

「どうでもいいことだ」

不溜人の子供になど、二度と会うはずもなかった。

「そう・・・、ごめんね、変なこと聞いちゃって」

「行こう。私たちはここに長居するべきではない」

 風音の姿は光の帯に包まれた。阿那の額に吸い込まれるようにして、光が集まってゆく。大きな翼が音を立て、湿った砂が舞い上がる。涼しい風をつかむと、地上はあっという間に遠ざかって行った。果奈の唯祈も、続いて飛び立つ。

《すまない。ずいぶん暗くなってしまったな》

すでに日は沈み、二匹の影は重く青じんだ空に溶け込んでいた。こうなってしまうと、後は竜の鼻だけが頼りだ。

《大丈夫、あまり富良樹からは離れていないし・・・。そうだ、風音は、もう通達書、見た》

《今更、何を言ってるんだ。明日が入隊式なのに・・・特務隊だ。決まっているだろう》

《うん、主席なんだから、当前だよね・・・、私は諜報部。とりあえず、おめでとう》

 声色が伝わってこずとも、風音には分かってしまう。

《いや、諜報部なら、仕事で会う機会もあるだろう。それに・・・私の単独任務なら、助手を指名できると聞いている》

 雲を抜けて、月の光を浴びた。青白い静けさの上を、二つの影が滑ってゆく。

《ありがとう。でも・・・》

《何か》

《ううん、そういうことじゃなくて、うまく言えないんだけれど、あれから5年になるんだなって》

 養成学校の寮は、同郷人同士を相部屋に押し込むのが習わしになっている。生活力のない風音は、ルームメイトに迷惑ばかりかけていたのだった。

《ああ、入ったばかりのころは長くも思えたが、終わってみるとあっけないものだな。明日からは、また新たな日々が始まる》

 雲海が途切れ、眼下に黒い海が広がった。二つの月と、闇だけが残る。阿那は緩やかにダイブして、冷たい夜の風を切った。振り返らずに、唯祈の追ってくる音を聞く。

《始まりか・・・そういえば、他のみんなはどうなったんだろう》

《明日、会えば分かることだ・・・父によれば、今年は豊作らしいが》

《だよね。風音と幾起の試合なんか、27回の卒業試験の中でも指折りだったっていうし》

《・・・ああ》

《すごいよね。初めは底の方にいたのに、次席までこぎつけたんだもの》

《ああ》

《結局、風音についていけたのは、幾起だけだったね・・・》

《ああ》

《私は・・・駄目だあったけれど、諜報部に入れたんだから、期待してたより、ずっと良かった》

《ああ》

《とにかく、借金を全部返せるように頑張って、それから、風音のお父様に立て代えて頂いた学費を返して、か》

《・・・》

《風音》

 果奈に呼び戻されて、風音は返事を考えだした。

《あ、いや、父上は、一銭も払っていないと思うぞ。洛(ラク)澄(シュミ)の公費・・・もとい、単に免除しただけだろう》

《・・・幾起なら、一か月もすれば全快するって言ってたし、試合だったんだもの。気に病むことなんてないよ》

《いや、私は・・・》

 視界をすり抜ける居虎、背後から聞こえた咆哮。忘れかけていた戦慄が蘇った。


 冷えこみ始めた風の中を飛び続けると、闇の溶け合う水平線から、淡い光がこんこんと湧き出すのが見えた。

《見えたぞ。私たちの家だ》

《うん、あったかい。ここまで熱が伝わってくるみたい》

 近づくにつれて、火の富良樹はその全貌を明らかにしていく。島の上にそびえる巨大な幹。まっすぐ天に突き刺さる頂端。家々の明かりがちりばめられた、太い枝は、流れる風に熱を与えている。上代の人は、富良樹を、天を支える柱と呼んでいた。

 二匹は富良樹の周りを旋回しながら、高度を少しずつ上げていった。失速を避けるため、通(トゥ)灯(ド)を使わなければならなかった。阿那の甲羅から、虹色の炎が噴き出す。翼に強い力がかかって、小刻みに震え始めた。上葉人の居住層を通り過ぎると、商業層にさしかかり、下流の昴人の居住層が見えてくる。不知火の屋敷は上から二番目の枝にあり、その上には神殿と紅色宮があるだけだ。

 枝に近づくと、まばらにいくつもの桟橋が見えてきた。暗くてよく見えないため、風音は隣の家の桟橋に泊まりかけた。軽く羽ばたいて制動をかけ、静かに着陸する。

 亜邦と唯祈を厩舎に戻すと、風音は

「丸一日付き合わせてしまったな。埋め合わせにはならないかもしれないが、呼ばれていってくれ」

と誘ってみたが、果奈の答えは、風音を驚かせた。

「じゃあ、約束してくれる」

「あ、ああ。分かった」

 風音は果奈の勘の良さを知っていた。

「もう二度と、こんなことはしないで」

 落ち着くまで、口にするのを憚っていたらしい。

「うん」

 風音は、振り返らなかった。

「ありがとう」

 丸まった背中に、果奈がそっと声をかける。

「行こう。みんなも心配してるよ」

 冷え冷えとした夜の風が、静けさを埋めていった。

「お嬢様、果奈も、どこにいらしてたんですか」

 勝手口から上がってきた二人を見つけたのは、女中の玉之だった。通いのはずだが、果奈が頼んだからか、待っていてくれたらしい。

「遅くなって、ごめんなさい。先輩たちの所に、結果報告にまわっていたから」

 風音の読みとは反対に、気を利かせたのは玉之の方だた。

「その様子だと、随分良かったみたいだね。おめでとう。お嬢様も、おめでとうございます。男ばかりの中で一番でしょう。さすがです」

「ありがとう。果奈は、諜報部だ。おめでとう」

「ありがとうございます。こんなに誇らしい気分になるのは、生まれて初めてですよ。それにしても、果奈、本当によく頑張ったね」

「うん、これならすぐに家督も買い戻せるよ、お母さん」

 耐えつづけてきた二人に、ようやく見え始めた光。脇で灯りの投げた光が楽しげに踊る様子を見つめながら、風音は熱くなった目頭を押さえた。

「さあ、お嬢様。奥様がお待ちですよ。明日出発なさる前に、一度しっかりとお話をしておきたいとのことです」

 洛澄の養成学校に入った時にも、最後まで反対していた母である。素直に祝って返してもらえることは、到底望めそうにない。

「本当に涙が出てきた」

 風音は、長期戦に備えて、玉之に用意してもらった粥をかき込んだ。


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