ふたり回し

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乳海

やっと話が動き始めたかも。


 いつの間にか、アレクは霧の中を彷徨っていた。肌を刺す地下室の霧とは違いこの霧は肌理が細かく、アレクが手を動かすたび指に絡みついてくる。歩いても歩いても霧以外に見えるものは無く、温かく柔らかい乳白色の海はどこまでも続いているかのようだ。ここにはアレクと霧以外、まだ何も生まれ出ていないのかもしれない。

「おーい、誰か、誰かいないのか」

 試しに叫んでみたものの、アレクの声は白く濁った霧に溶け込み木霊さえ返ってこない。ただ、色あせた風の音がどこからか聞こえてくるばかりだ。少しの間立ち止まり辺りを一通り見渡してから、微かな風の感触に従いアレクは再び歩き出した。覚束ない足取りで霧の海の、奥へ、奥へ。青いシャツと綿パンは霧を含んで肌にまとわりつき、踵を付けるたびに靴が湿った音を立てる。代わり映えのしない景色がアレクの歩みを鈍らせていることは疑いようもなかったが、それでもアレクは歩き続けた。

 目印も、太陽も、影さえない霧の中を、果たして何時間歩いただろうか。今やアレクは、終わりの見えない白い霧の本当の深みにいる。気付かぬままに歩き続け、私の眠る霧の最奥にあと一歩のところまでやって来たアレクを、しかし、ある女の声が呼び止めた。

「止まりなさい、その先にあなたの出口はありません」

 アレクは灰色の目を見開き声の主を探したが、立ち込める霧の深さが全てを塗りつぶしている。

「誰か、誰かいるのか?」

 アレクの頬に留まった霧は数えきれない雫となり、他の雫を巻き込みながら次々と流れ落ちた。

「ここから帰りたくば、風の音がする方に向かいなさい。風上に向かって歩いて」

 冷たく澄んだ女の声はどこからともなく聞こえてきて、霧の中に広がり、次第に薄まってゆく。その後もアレクは何度か呼びかけたが声は答えようとせず、アレクは仕方なく声に従い風の音を手繰り寄せた。女の声が言った通り、音が大きくなるにつれて向かい風が強くなってゆく。

 霧の中を流れる風が細めた目に沁み込んでも、アレクは歩みを止めることなく風に逆らって歩き続けた。この風がアレクをここまで運んできたのだろうか。ワックスで固めた前髪が崩れ、風を吸ったシャツの裾ががむしゃらに泳いでいる。これだけ風が強くなっても出口は全く見えてこないが、何かがあるのは間違いない。アレクは両腕で顔を庇い、霧の中へと風を押し込んだ。温かい霧の粒が鋭く頬を打ち付け、無数の雫が頬を横向きに流れ落ちていく。いよいよ風が重さを増し足を踏み出すのも難しくなってきたそのとき、目の前に光が弾け、アレクの意識を洗い流した。


 アレクがうっすらと目を開けると、蛍光灯の冷たい光が目に流れ込んできた。消毒された白い光は寝ぼけ眼に良く染みる。思わず顔を背けた後明るさに目が慣れてから、アレクは漸く体を起こした。雲が描かれた空色の壁紙、プラスチックの収納棚、ベッドの脇に寄せられたカーテン。どこかの病室だろうか。

「アレクさん、お加減いかがですか?」

 いつの間にか、戸口に背の高い看護師が立っていた。加減。別段、体におかしなところは無い。眠いですね、とアレクが答えると看護師は控えめに笑い、担当の医師を呼びに行った。

一体何故自分は病院にいるのか。アレクはゆっくりと息を吐き出し、ベッドの上に再び寝転がった。空色の天井に、蛍光灯の光が眩しく輝いている。眩しい。スパークだ。ターミナルから光がほとばしり、アレクは、感電したに違いない。

 蘇った電極刺激にアレクの筋肉が縮み上がり、抱えた身体を小刻みに震わせながら、アレクはじっと息を整えた。

「おはようございます。あなたを担当することになったピョートルです。よろしく」

 ピョードルは窓際のパイプ椅子を広げ、重たい腰を下ろした。ピョートルが座るには椅子はあまりにも小さすぎ強度も足りていないため、ピョートルが身じろぎするたび囚人奴隷の悲鳴を上げる。

「アレクさん、どうですか。身体を動かしてみて、麻痺している箇所などありませんか」

 アレクは言われた通りに手足を動かしてみたが、どこにも異常はない。バインダーの書類にチェックを入れながらピョートルはしばらく質問を続け、簡単に条件反射のテストを行った後アレクに無事を言い渡した。

「ご安心ください。目立った後遺症は見当たりません。これも主のご加護ですね。昏睡している間に撮ったレントゲンも綺麗なものでしたから、特に心配することもないでしょう」

 温かな笑顔を保ったまま、ピョートルは一呼吸おいて訊ねた。

「……ところでアレクさん、事故当時何が起こったか、覚えていますか?」

 声は低く穏やかなピョートルの声に、アレクの首筋がこわばった。

「光が見えました。電源装置をいじっていたら、突然光が見えたんです」

 シーツの上に視線を落とし、アレクは大きく息を吸った。

「多分、感電したんだと思います。俺がちゃんと話をしてなかったから、ユーゴか……天使様が、俺の代わりにブレーカーを上げてしまったのかも」

 ピョートルはアレクの手に自分の手を重ね、ゆっくりと頷いた。

「それは痛ましい事故でしたね……天使というと、私のような医師でしたか? 丁度こんなブレスレットを着けていた?」

 肘まで白衣の袖をまくった毛深い腕を、ピョートルはアレクの目の前で捻って見せた。白金のブレスレットには、医療福祉を示すルビーのラインが入っている。

「袖に隠れて見えませんでしたが、クロト様は研究医だとおっしゃっていました。ここも大学病院の……中ですか?」

 白いカーテンのかかった窓を見やり、アレクは躊躇いがちに訊ねた。

「ええ、病院が近かったのが幸いしました。早い段階で最良の処置を行うことが出来たのです」

 救急車を呼ぶ必要も無く、アレクは担架に載せられてそのまま裏口から担ぎ込まれたらしい。話を聞いて、アレクは軽く笑った。

「近いか。そりゃ、これ以上近いところなんてありませんよね」

 ピョートルはアレクに付き合って笑い、それから真顔でじっとアレクの目を見つめた。

「では最後に。二人に対して、憎しみを感じますか?」

 アレクがかぶりを振るとピョートルは力強く微笑み、詳しい検査の日取りを教えてくれた。何事も無ければ、三日でここを出られるそうだ。

「それでは、特に質問などなければ、これで。あなたに主の導きがあらんことを」

 アレクも同じ祈りを返すと、ピョートルは頷き、静かに空色の病室を後にした。せっかく目覚めたばかりだといのに、枕元のデジタル時計は夜の七時を指している。食事の時間は既に過ぎているらしく、アレクはすきっ腹を抱えてベッドに倒れ込んだのだった。