ふたり回し

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カルラさんによる観光案内が続いております。

余り説明臭くなるようならもう少し分散させる?


『玄室』。確か、テルミンも似たようなことを言っていた。一時の流行りで、すぐに見捨てられてしまった学説。

「そうか、どこかで聞いたことがあると思ったら……ユレシュというのは、心理学者のユレシュだったんですね」

 アレクはゆっくりと立ち上がり、つなぎのペンチループにかかった芝生を手でつまんだ。

「じゃあ、ここがその、全ての人間の心がある場所なんですか? 昼間に医師が話していた、ユレシュの『玄室』?」

 アレクは息をのみ、中庭をぐるりと囲む石灰岩の城壁を見渡した。

「ええ。勿論『玄室』と呼ばれるものが物理的に存在するのか、そしてどこに存在するのかはまだ分かっていません。ですが、ここはあらゆる人間の意識につながっています……お見せした方が早いでしょう。こちらへ」

 カルラは再び歩き出し、アレクは小走りでカルラの横に並んだ。モザイクで波を描いた小さなポーチを抜けた先は、さっきと似たような吹き抜けの広間だ。

「アレクさん、あそこに扉が並んでいるのは分かりますか?」

 壁から張り出した仕切りに面してドアが5つほど並んでいる。仕切りのあるのは、ここから見て階段の行き止まりだ。階段は広間を半周するテラスが合流し、アレク達の目の前まで続いている。

「見えますけど、簡単に入れそうにはありませんよ」

 どこを経由して壁の上に出なければ、正しい向きで扉に辿り着くことはできない。

「そうですね。他の広間を通ってあの出口を目指しましょう」

 カルラは遥かな頭上を指さした。奥に向かってたわむ仕切りの先に小さな出口がある。特に考え込む様子も無く、カルラは二階のテラスに上がり、テラスの奥に見える出口から城の外に出てしまった。

「よく迷いませんね。こんな、トリックアートみたいなところ」

 アレクはカルラの背中に叫びかけたが、外壁を伝う非常階段には容赦なく横風が吹きつけ、アレクの声を洗い流してしまう。

「こればかりは慣れですよ。私も来たばかりの頃は迷ってばかりでした」

 それにしても、この階段は、どこまで続いているのだろうか。頭上を見上げて、アレクは思わず足を止めた。中から見た時には壁が反り返っていたはずなのに、この外壁は真っ直ぐに切り立っている。

「この壁は……そうか。中と外で全然別の空間になってるんですね」

 カルラは振り返り、風に流れる黒髪を片手で抑えながら答えた。

「パッチワークのようでしょう? 直行する城同士を、歪み(ワープ)と穴(ホール)が繋ぎ合わせている……私が初めてこの城の話をしたとき、学者たちは20世紀半ばに活躍した画家にちなんでこの城を『エッシャーの城』と名付けました」

 カルラの背後には、三角屋根の礼拝堂と湾曲した尖塔が横向きに生えている。アレクが追いつくと、カルラは話を続けながら再び階段を上り始めた。

「画家? というと、こういう絵を描いていたんですか」

 アレクが尋ねると、カルラは向うを向いたまま小さく笑った。

「トリックアートという言い方は正解です。彼は正に、だまし絵の第一人者だった…そこの入口です」

 階段の頂点は細い通路につながっており、少し離れたところに小さな入口が開いている。カルラが正しければ、この入口がさっきの仕切りの上につながっているはずだ。

「騙し絵か……床が壁に、上りが下りに、奥が手前になるんなら、天使様は一体何になるんです?」

 入口から中を覗くと、細いテラスの先に、いくつかの扉が並んでいるのが見えた。正解だ。さっきは床だった筈の面が部屋の奥の壁にとなり、庭につながる門も、広間の奥で上向きに開いている。

「私? 私ですか?」

 カルラは真顔でアレクを見つめ返し、それから艶やかな笑顔を見せた。

「それなら私は、ただのカルラになりましょう」

 ルビーの敷き詰められたブレスレットはカルラの手から滑り出すと、涼しげな弧を描いて青空に吸い込まれていった。

「冗談で放るには、流石に勿体ないですよ」

 ブレスレットを見送りながらアレクは苦笑したのだが、カルラは首を横に振り、小さな声で口ずさんだ。

「天使はどこよりくるぞかし――さあ、扉はすぐそこです、参りましょう」

 二人はテラスを進み、一番手前の扉の前で立ち止まった。意識につながっているというのは、この扉のことなのだろうか。

「とりあえず、この部屋に入ってみてください」

 カルラは扉を開け、アレクは言われるままにドアの奥の暗闇に足を踏み入れた。すると、アレクの手足から激しい熱の入り混じった寒気が流れ込んでくるではないか。

「奴が来る、追いつかれる!」

 アレクは息せき切って工場の中を走っていた。肺の中の息は焼けつき、心臓が肋骨の中で暴れている。靴のつま先にぶつかる小指が踏み出すたびにひりひりと痛んだ。安っぽい光を放つパイプの間を伝って来るのは、反吐の混じったうめき声と粘液に濡れた足音だ。

このままでは妻のように、あのモップもどきの餌にされてしまう。

「誰か! 誰か助けてくれ!」

 触手に埋もれた二つの目を爛々と輝かせ、怪物はアレクを追いかけた。一体何がどうなっているのか。これが扉の中だというなら、出口はどこにあるのだろう。不意に狭い通路が途切れ、アレクは広い部屋に転がり出た。二列に並んだタンクの中では黄緑色に光る液が撹拌されているらしいが、今のアレクにとって重要なのは、ここが行き止まりであるという一点だけだ。

「目を閉じて、手足をゆっくりと伸ばしてください」

 カルラの声だ。アレクは部屋の中を見渡そうとしたが、体は勝手にタラップの下へと駆け出している。この身体を、一体誰が動かしているのだろう。

「アレクさん、目を閉じてください。手足を伸ばして、指先に意識を集中して」

 ところが、アレクには目を閉じることさえ出来なかった。身体はひたすら屋上目指してタラップを上り続け、モップもどきは建屋の壁を喚きながら叩いている。金縛りを解くために、アレクはせわしなく動く手足を強引に押しとどめた。止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ。しつこく念じた甲斐あって手足から魂だけが抜け出し、手先の感覚は宙を彷徨っている。

「あと一息です。自分の身体を意識して、思い出してください!」

 梯子を上る身体の外側に、アレクは自分の身体をイメージした。そう、この身体は、アレクの物ではない。漂っていた魂をつなぎとめたそのとき、アレクは既に扉の前に立っていた。

「今のは、一体……」

 額に大粒の汗を浮かべかすれた息を吐きながら、アレクはぼやけた眼差しをカルラに向けた。あの工場は、怪物は、本当にこの城の一部なのだろうか。カルラは扉を見やり、腕まくりをした手でそっと撫でた。

「アレクさんが見たのは、この扉と繋がっている、他の誰かの意識です……何やら随分と取り乱していらっしゃるようでしたが」

 先ほど垣間見た男と怪物は、今もどこかで追いかけっこを楽しんでいるということだ。アレクは手で口元を押さえ、白い壁に寄り掛かった。

「いや、でも、そんな……あんな化け物が、本当にいるなんて」

 化け物という言葉を聞いて、カルラは冷めた相槌を打った。

「ああ、そういうことでしたか」